2011年8月16日火曜日

日本人の朝鮮観

 

勉強しはじめたばかりだが、日本人の歴史観には日本書紀が影響していると思う。

 

三韓征伐 
日本書紀に記述。神功皇后が行ったとされる朝鮮半島新羅への出兵をさす。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされる。今から約2000年前、仲哀天皇の即位2年春2月に仲哀天皇、神功皇后が敦賀に御幸され笥飯の行宮(気比神宮)を営み給うた。その後天皇は熊襲征伐のため陸路山陽道を山口県へ向う。神功皇后は2月より6月まで気比神宮の奥宮常宮神社にとどまり、6月中の卯の日に海路日本海を渡り、山口県豊浦の宮にて天皇と再会する。神意に背いて熊襲征伐を行った仲哀天皇は亡くなったが、神功皇后は朝鮮半島の三韓征伐(新羅征伐)を行う。
上記神話は歴史学的な実証性はほとんどなく、神功皇后の実在性も希薄である。しかし、この4世紀から5世紀に渡って倭の国が半島に出兵していることは公開土王碑の検証を巡って歴史的に実証されている。神話はこの事を教示し、敦賀の地と大陸の密接な関係を教える。

このテーマで朝鮮新報が連載している。意外な人の、思いがけない見方が分かる。

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/06/0506r600.htm

日本人の朝鮮観を研究した本には、こういったものもある。

 


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「妄言」の原形―日本人の朝鮮観 高崎 宗司 (単行本 - 2002/4)

2.

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日本人の朝鮮観 琴 秉洞 (単行本 - 2006/9/27)

誰でも知りたい朝鮮人の日本人観 総解説 琴 秉洞、 高柳 俊男 (単行本 - 1986/2)

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オンドルと畳の国―近代日本の“朝鮮観” (仏教大学鷹陵文化叢書) 三谷 憲正 (単行本 - 2003/9)

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韓国のイメージ―戦後日本人の隣国観 (中公新書) 鄭 大均 (新書 - 2010/9)

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差別への凝視―365日が3回 大菅 新 (単行本 - 2006/4)

 

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朝鮮近現代史を歩く―京都からソウルへ (佛教大学鷹陵文化叢書) 太田 修 (単行本 - 2009/4)

「妄言」の原形―日本人の朝鮮観 高崎 宗司 (単行本 - 2002/4)

2011年8月15日月曜日

創氏改名 当時の感覚は?

創氏改名については、いろいろな立場から書かれているが、当時を回想している人の文章はあまりない。

ボクらの京城師範付属第二国民学校という本に、創氏改名の時期における韓国内の雰囲気が描かれている。

クラスのほとんどは入学したとき日本式の名前になっていた。40人中、創氏改名していないのは私を含めて4人だけだった。だから先生に何か言われるということはなかったが、祖父は「役所から期限内に改名するように指示があった」(25p)と書いている。

本人は創氏改名しないことで引け目を感じていたという。子供だからそうかもしれない。

原文 非公開

http://pinoccio.at.webry.info/200603/article_2.html

2011年8月14日日曜日

前方後円墳の謎

日本にしかないと思われた墓、前方後円墳が韓国南部であいつで発見されている。

しかも、かつて日本が出先を持っていた地域ではなく、現在の全羅南道のあたりに集中して出ているという。おもしろい話だ。現地に行ってみたくなった。

今後書き加えて行きます。

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参考サイト

http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2009/06/13-1c9b.html

http://pub.ne.jp/luckfield/?entry_id=3314838

七支刀も興味深い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80

2011年7月30日土曜日

古代史用語覚え書き

 

.倭とは何か


倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。5世紀末までは南韓の中にいた倭を指す。

倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。

..「やまと」の語源


山のふもと
山に囲まれた地域であるからと言う説
この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説[1]

..ヤマトの範囲


元々は大和王朝(ヤマト王権)の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、大和王朝が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。さらに支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。

.任那日本府


現在、記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたと考えられている[7]。
1960年代頃から朝鮮半島では民族主義が広がり、既存説への反動から、記紀に記されているヤマト王権の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた[8]。この説に対しては、『日本書紀』を否定しておきながら、出雲神話、天孫降臨神話、神武天皇東征伝承などを歴史的事実と認め、そこから日本本土内の「分国」存在の結論を導き出しているのは自己矛盾の何物でもない等の批判がなされ、全く支持されなかったが、1970年代に入り、それに同調する日本の研究者も現れた[9]。
しかしながら、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であると紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次ぎ(その後の調査により、松鶴洞一号墳に関しては、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないことが明らかになったが[10])、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳があることが確認されている[11]。
また朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとする説[5]がある地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている[11]。
そのため、ヤマト王権と深い関連を持つ集団(ヤマト王権から派遣された官吏や軍人、交易商人、ヤマト王権に臣従した在地豪族)が、伽耶地域とその西隣の地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについては、ほぼ確実視されるようになった[12]。
ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉などがある。戦前の日本の考古学者はこれをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後に朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたこともあった。 しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないこと[13]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、日本からの輸出品であることがわかった[14]。

..伽耶

伽耶は古代の朝鮮半島南部に存在した数多くの国家のことである。伽耶諸国と呼称する場合もある。滅亡の時まで一つの国家に統合することなく、百済と新羅によって併呑されたが、存在している間は倭国との関係が深く、倭国にとって伽耶は最も近い外国で、発達した文化を伽耶から学んだ。

伽耶は戦前から1970年代まで、主に「任那」と呼称され、倭国が支配していたとされてきた。日本書紀の記述を根拠としており、書紀の記述以上の想像も付加して、歴史的事実だと考えられていたが、現在は、そのような考えは殆ど否定されている。古代の日本とどのような関係をもった地域であったのか、文献史学、考古学的調査・研究の進歩によって、客観的に、かつ実体的、個別的に考察することが可能となった。

 

.任那日本府

日本書紀の欽明紀にのみ表れる用語である。
神功皇后による三韓征伐神話などを根拠に、倭国は4世紀後半から万単位の軍勢を朝鮮半島南部の「任那」に送って、これを自国領とし任那日本府はその統治機関とされていた。
しかしながら6世紀以降「任那」は百済、新羅による激しい攻撃に晒され、遂に562年新羅によって完全に飲み込まれてしまう。こうして「任那」と「日本府」は消滅し、新羅は倭国の「敵国」とされる。

簡潔にいうと、4世紀から7世紀にかけて倭国は「任那」という自国の領土の維持、滅亡後はその復興を主眼に置いていたが、それらはすべて失敗に帰したというのが従来の通説であった。

しかしながら1970年代以降、各種史料の研究が進展したことで今日では上記の言説は否定され、倭国が万単位の軍勢を送ったのは白村江の戦いが初めてであり、それ以前は多くても1000人以内であること、倭国が朝鮮半島を支配した事実はないということが判明している(史料用語として「任那」、「任那日本府」という言葉は用いられることもある)。「任那日本府」の実態については研究者によって意見が分かれている。

韓国の韓の意味は?

地名の韓は、古くは中国戦国時代の七雄の一国の名。その後、紀元前後には朝鮮半島南部の三韓。その後1500年の間をおいて、朝鮮半島の地名として「韓」が復活するのは、19世紀末の「大韓帝国」です。

ネットや本から集めてきた基礎的用語集です。

2011年7月12日火曜日

唐人踊りはどこにあるか

朝鮮通信使が刺激になって各地に残っている唐人踊り。

絵で残っているのは岡山県牛窓の金剛頂寺、東照宮縁起絵巻、朝鮮酷使歓待之図、羽川珍重作(神戸市立博物館蔵)が有名だ。

 

本物の踊りで代表的なのは鈴鹿。牛窓、鈴鹿の3カ所。

共通する特色は、足を大きく開いて、ラッパを吹く。激しい上半身の動きである。

 

 

 鈴鹿市の唐人踊り、国道23号線ぞいにある東玉垣町で、4月に牛頭(ごず)天王社の祭礼と して行われる。仮面をつけた地元の若者が、太鼓や鉦などにはやされて活発に踊る。 唐人役を務める男性は、女性をからかい、町内をまわる。 

ホームページ 牛頭天王社春祭り(H15.4.6)

鈴鹿市の唐人踊り

起源についての確かな裏付けはなく、『新編 鈴鹿市の歴史』のなかでは、唐人踊りの楽曲を中国式の音楽として、 「この踊りは江戸時代中期はじめに長崎に行われ、その後江戸、浪速の地で盛行していたものを、祭りの行事として 輸入したものではなかろうか」と推理して、「その源流を韓国か中国にみつけねばならない」と記している。


  それに対して、朝鮮通信使については、ラッパなどの楽器、衣装や帽子の形が津市の唐人踊りと似ている。 メロディーについて民族音楽学者の草野妙子武蔵野音楽大学教授と京都大学の上田正昭教授は、音階的に朝鮮音楽の影響が見られ、朝鮮中期の田植え歌と推測。平成9年には、三重県無形民俗文化財に指定された。

 岡山県牛窓町の唐子踊りは、朝鮮通信使が立ち寄った港の中で、唯一、名残を残しているものとして有名。 小学校の教科書でも写真つきで紹介されています。戦前は、津市の唐人踊りが「豊臣秀吉の朝鮮出兵に由来する」と 説明していたように、「神功皇后の朝鮮出兵に由来する」と起源を解説していたが、今では、 朝鮮通信使ゆかりの民俗芸能として保存している。

写真ページ 牛窓秋祭り(H15.10.26)

岡山県の唐子踊り

 鮮やかな色彩の衣装を着た二人の男児が、肩車に乗って地区の神社に参詣し、小太鼓や横笛と意味不明の歌に合わせ て踊る。10月の祭礼で披露される唐子踊りは、朝鮮通信使一行の 童子対舞がもとであるとの説が有力になっています。そして、牛窓町では、「海遊館」という名前で朝鮮通信使と地元のだんじり祭りを 紹介する資料館を常設しており、いつでも見学できる。
 

江戸、金沢、名古屋、川越、土浦、和歌山、鳥取、二宮など で唐人踊という名称の芸能があったということが分かってきている。

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津市分部町の唐人踊りは行列の正使である大将がいて、「清道」などの旗をかかげ、大勢で練り歩くというスタイルは、唐人踊りだけのもので、 朝鮮通信使の絵図と比べてよく似ている。

最近、毎年11月には朝鮮通信使ゆかりの自治体などで集まる「朝鮮通信使縁地連絡協議会」 では、いつも当時の行列を再現するように要請を受けている。
 

朝鮮通信使が通過さえもしていないのに、なぜ津で このような形で残っているのかは、よく分かっていない。

net上のドキュメント保存室に関連あり


2011年7月10日日曜日

東学党の乱を考える

この乱は農民一揆のように考えられているが、実は韓国の民衆史の中で初めて本格的な民衆蜂起だった。

甲午農民戦争ともよばれ朝鮮近代史の大きな転換点であった。一九八〇年代、韓国の民主化運動が進展するなか、甲午農民戦争を近代民衆運動の出発点としてとらえる評価は、すっかり定着した感がある。私たちはやはり、偉大な緑豆将軍をしのんで今も歌いつがれている。

  鳥よ 鳥よ 青鳥よ

  緑豆の畠に下り立つな

  緑豆の花がホロホロ散れば

  青餔売り婆さん泣いて行く

    (日本語訳は、金素雲訳編『朝鮮童謡選』岩波文庫、による)

首謀者の

全●準ぜん ほうじゅん、1854年 - 1895年)は、朝鮮国(李朝)後期の人物。東学の主要人物で、甲午農民戦争の契機をつくった。
生涯

1854年、全羅北道の泰仁で生まれた。東学の地方幹部であった彼は、暴政を行う役人に対する憤りから、1894年に農民を統率して郡庁を襲撃した。これを契機として甲午農民戦争が勃発した。その後まもなく日本と清朝がともに出兵したこともあり、一旦は全州和約を結んで政府と和した(但し和約を結んだとする一次資料は発見されていない)。しかし、親日的な開化派政権が成立すると、再び蜂起して抵抗を続けた。最終的には逮捕され、漢城(ソウル)で1895年に処刑された。

東学が一般大衆に広がった理由のひとつは、その教理の単純なことによる。即ち、儒学の修得が長い年月と相当の財力を必要とするのに比べて、東学において、その真理に達するための修養方法は、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった。東学教徒たちは天主(ハヌニム、「天の神」、朝鮮における古代からのシャーマニズムに由来する概念)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた。

また山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦いに備えるため木剣を持って剣舞をならった。しかし、東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。

以下は、日本の或る陸軍将校が記録した全?準の言葉である。

我々は閔(みん)氏一族が民を思わず恣(ほしいまま)に私腹(しふく)を肥(こ)やしているのを見て憤慨(ふんがい)している。この閔氏一族を斥(しりぞ)けるようしばしば政府に直訴(じきそ)したが、無視され続けた。これは、宮廷にいる閔氏一族が邪魔をして我々の訴えを国王に伝えないからであろうと思った。それで君側の奸(くんそくのかん=国王のそばにいて政治を私物化している人物)を除(のぞ)くために挙兵(きよへい)したのである。
しかし、我らの挙兵は、思いがけず日本と清の軍隊を国内に呼び込む結果となった。こういう結果を招いたのは、たいへん残念なことである。
 http://www.jiyuushikan.org/jugyo/jugyo80.html

日本人では内田良平が参加している。

2011年6月13日月曜日

白村江の戦いに見る日本人気質

韓国の歴史の本、たまたま白村江の戦いについて読んだら、思いがけないことが書いてあった。複数の本に同じ記述があるので本当だろう。

この海戦は663年に起きるが、準備万端の唐軍に対して日本側は「 我先をあそわば、彼自ら引退くべし」と気象を無視して突撃し、数万の日本軍は、数千の唐軍に惨敗する。日本は突撃精神が重視されるが、このころから変わっていなかったのかも。

「白村江」以後 森公章

2011年6月7日火曜日

朝鮮時代 王は庶民の近くにいた

「直訴と王権」(原武史)を読む。この本は朝鮮王朝時代に、王が民からの直訴を丁寧に受けていたことを書いている。新鮮な視点だった。

日本でも江戸時代直訴はあった。しかし、直訴したものは死刑になった。

朝鮮王朝では、名君とうたわれ、ハングルの創設にも尽力した世宗が「御使」と称して、地方の実情を調べる使節を派遣したのを始め、後生の王も民の意見収集に努力していた。それを儒教の教えと考えていたという。(前書き)

すると金正日総書記が熱心に行っている現地指導も、こういう朝鮮王朝の伝統を受け継いだものといえるのかもしれない。

2011年6月2日木曜日

金大中


韓国の政治家金大中の人生のハイライトは、実は刑務所にいたときではないかと思う。対立する政治家を心の中で許しながら、平穏を得て、読書に邁進する。彼が政治家としての深みを得たのは、あの時代立ったのだと思う。そのことは最新の自伝の346pから記述されている。

2年間に1日10時間、600冊読んだという。

2011年6月1日水曜日

朱子学と朝鮮半島

宋学を大成したのが朱熹(しゅき)で、後に朱子とも言われた(1130~1200)。
日本では平安末期から鎌倉初期のころの人だ。


わずか19歳で科挙に合格した朱熹は泉州同安県の主簿となったあと4年で退官し。李延平に師事し儒学を学び、46歳のとき呂祖謙と共に近思録を著した。

朱熹の理論では宇宙は原理と運動の二つから成り、原理のことを「理」、運動のことを「気」と言います。ここからこの理論を理気二元論とも言う。

朱子は、総合的に論ずれば万物を統括する実態は一つの太極(すべての根源)である。太極とは理であり、その動静は気である。理は根本であり、その後に気が生ずるのだ と言う。

儒教はすなわち、孔子などの言葉を学ぶことだった。朱子学、それまでの儒学とは全く違って、人間とは何かという普遍的なものを探求した。イデオロギー色が強い。根本には「尊王賤覇」がある。「王」即ち皇帝を尊び、覇者を蔑むということだ。


ここまでは一般論。抽象的な論理構成です。韓国はそれまで儒教をさらに道徳的に高め、社会の朱子学化を進めた。改革思考だった。だから「司馬遼太郎のように朝鮮王朝は停滞の500年だったというのは間違い」(大倉紀蔵)という人もいる。

2011年5月29日日曜日

幼児語の共通性


長氏の「普段着の朝鮮語」を読むと、日韓では幼児語に共通性があることがわかる。チチはおっぱい、ウンはうんちプープは車、日韓の子供は通訳が要らないかもしれない。

2011年5月12日木曜日

ハングルをなぜ作ったか


 新しく言葉を作るのにはどのくらいかかるのだろうか、そもそも新しい言葉を作って一般の人たちが使ってくれるのか。

 そんな根本的な疑問を持つけれど、ハングルはそんな大きな障害を乗り越えて現在まできている。

 ハングルの世界という本によれば、ハングルは1443年に始まり、三年後に終わったことになっている。こんなに簡単に新しい言葉ができるのか、筆者も信じていなようだ。

 元々世宗という王は、庶民が自分の意見を自由にいえず、無罪の罪を着せられているというところから始まったようだ。

 これについては、前回も書いたように、学識者から強い反対があった。

 さらに役所も抵抗し使おうとしなかったという。

 反対論者の先鋒は崔万理という人だった。

 彼の主張をようやくすると、勝手に文字を作ると中国との関係が悪くなる。学問が遅れる。言葉ができないからといって無実の罪になるというのは解せない。あまりことを急いではいけない。

 ということだった。

 それでも世宗は押し切った。

ハングル反対論

世宗とハングル
めになると考えていた.それで鄭鱗趾は『訓民正音解例本』序文で,レヽング
ルが作られる前には,漢文書籍を習う人達が,その意昧がわからなくて苦しんだが,ハングルが作られた後には漢文の本を読んでもその意昧がわかるよ
うになった]と説明しているのである.これに対して,崔万理等は次のよう
に反駁した.
① ハングルを使用するようになれば,官吏達がハングルだけ習い,学問に関心を特たないようになるであろう.
② ハングルだけで官吏になることが出来るとすれば,後輩達がこれを見て[二十七字諺文](本文のまま)だけで出世が出来ると考えるだろうから, 何のために苦しみながら「性理之学」を研究するだろうか.
③ このようになったら,数十年後には漢宇を知る人が必ず減ってきて, 「聖賢之文字」を知らない人は事理をわきまえることも出来ないし,我国が築き上げた文化もきれいに亡くなってしまうであろう.このように言ってから,また,
今此諺文 不過新奇一芸耳 於学有損 於治無益 反覆筈之 未見其可 也(今のこの諺文は新奇な一つの芸能であるのみである.それで学問には 害になり政治にも益するところがないから,いくら繰り返して考えてみてもその正しさを知ることが出来ない)として,学問がすたれることを心配している.4)対中国外交と訳学
朝鮮朝は建国初期から,近隣の諸国家と円満な外交関係を維持するのが,重要な国家施策の一つであった.当時の記録者達はこれを「事大交隣」と表現した.しかし,このような外交政策を効果的に展開する為には,これを担当し遂行する人達が,近隣諸国の言語に良く通じている必要があった.
高麗時代にはこのような必要から通文館を設置して漢語(中国語)を教育した.朝鮮朝では1393年(太祖2)9月に司訳院を設置して,外国語の教育に力を注いだ.

世宗 ウィキペディア


世宗(セジョン、せいそう、洪武30年4月10日1397年5月7日) - 景泰元年4月8日1450年5月18日))は、李氏朝鮮の第4代国王世宗大王세종대왕、セジョンデワン)とも言われる。姓は、名は示へんに陶の右)。即位前は忠寧君(チュンニョングン)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン)と呼ばれた。
ハングル訓民正音)の制定を行ったことで知られ、李氏朝鮮の歴代君主中もっとも優れた君主とされる。儒教の理想とする王道政治を展開したとされ、後年「海東の」と称された。しかし一方で女真族への侵略戦争や強制同化策をとり、仏教を弾圧するなど、強硬策も行った。

目次

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生涯 [編集]

即位 [編集]

1397年、第3代国王太宗の第3王子として生まれる。母は元敬王后・閔氏。1406年に成人すると忠寧大君(大君は王の嫡出子に与えられる職官)に封じられ、沈(シム)氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚した。
健康問題を抱えた父・太宗には何度か譲位を行う意向があったが、外戚との確執や長男の譲寧大君(ヤンニョンデグン)の奔放な性格が問題となり、なかなか行われなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子(セジャ、王太子)の資格を剥奪し、三男の世宗に譲位した。
世宗即位当初の4年間は、上王となった太宗が軍事権をはじめ政治の実権を握っていた。1422年に太宗が亡くなると、世宗の親政が始まることになる。

内政 [編集]

世宗は宮中に学問研究所として集賢殿(チッピョンジョン)を設置し、ここに若く有望な儒学者や官奴、外国人らを採用してさまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、李朝の文化と文治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した(後述)。とくに、集賢殿の鄭麟趾(チョン・インジ)らに命じて創製したハングル(訓民正音)が知られている。
1425年には朝鮮通宝を鋳造し、貨幣経済の浸透を試みた。また、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を設置して李朝の田税制度を定めた。
1437年になると世宗自体の健康問題もあり、六曹直啓制(省庁を王が直接統括する制度)を議政府署事制(領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式)に変更し、王の国事の負担を軽くし、権力を分散させた。

対外関係 [編集]

日本との関係に関しては、朝鮮の海岸を荒らしていた倭寇の取り締まり問題に関する対立が引き金となり、即位翌年の1419年に対馬への攻撃が行われている(応永の外寇)。ただし、この外征には当時実権を握っていた太宗の意向が反映している。世宗在位中には1428年1439年1443年通信使が派遣されており、室町幕府との修好・倭寇禁圧要請とともに日本の国情視察を行っている。使節に同行した申叔舟による日本社会の観察は、のちに『海東諸国紀』に記されている。1438年永享10年)ころには文引制を採用し、1443年嘉吉3年)には嘉吉条約を結んだ。
北方では建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江方面を朝鮮の領地に加えた。これらの地域には支配機構として六鎮が置かれた。また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行った。

文化と技術 [編集]

仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18か寺を除いてすべて破却するなどした。高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった(韓国の仏教参照)。世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある。
また、次のような実学や技術が発展したとされている。
  • 1432年に王立天文台である簡儀台を設置し、渾天儀など多くの天体観測器を製作させた。また、時間を測定する日時計仰釜日晷など)と自動水時計(世界初のからくり時計である自撃漏など)も製作させた。
  • 1441年に元官奴で正四品になった蒋英実(チャン・ヨンシル)が発明した「測雨器」は世界最初の雨量計であるといわれ、農業気象学に資した。また、農業技術の改良と勧奨のために『本国経験方』『農事直説』などの農書を編纂させた。
  • 世宗代には活字・印刷技術も発展を遂げた。1403年に発明された青銅活字「癸未字」の欠点を補完するため、新しい青銅活字である「庚子字」(1420年)、「甲寅字」(1434年)を開発させた。
  • 1444年に設置された「火砲鋳造所」ではチェ・へサンにより火薬火器の製造・開発がおこなわれ、火砲の鋳造法と火薬使用法、規格を図示した『銃筒謄録』が刊行された。
  • 世宗は朴堧に楽器の製作、郷楽の創作、井間譜の創案などを命じた。これにより朝鮮の雅楽の復興期が到来したといわれる。
このほか、世宗代に編纂された書籍として、医学書『医方類聚』などがある。

その死と陵墓 [編集]

晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で崩御。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である献陵(現在のソウル特別市瑞草区)に合葬された。1469年、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(通称・世宗大王陵)に移葬されている。

ハングルの意義

今まで考察してきた世宗とハングル創成,また,これに関する色々な問題を要約すれば,次のようである.
朝鮮朝は,崇儒抑仏を国是として建国したから,建国初期より儒教の精神をもとにして,色々な分野に亘って理想的な政治を施行しようとした.

特に世宗の時には,このような目標を達成するために,多くの分野においてあらゆる政策が力強く椎し進められた時代であった.この結果,内治・外交・文化等の分野で,輝かしい成果を収めた時代でもあった.

世宗時代にハングルが作られ,これに関連する多くの事業が展開されたのも,上で説明したような努力の一一環として成されたものであり,また,当時
犬いに高まっていた「自我の物」に対する自覚が結集された結果であった. その上,世宗とその袖弼者達は,次のような言語観を基本にしていたから,

数多くの語文政策を遂行することが可能であった.

まず何よりも,三国時代から漢字と漢文を借用し,実際に使用している音声言語生活と合わない二重表現生活を営んできたことが,大きな無理であることを自覚していた.また,窮余の策として使用してきた漢字音訓借表記法では,満足すべき言語生活が不可能であることも知っていた.そして,儒教をもとにした礼と楽を治国安民の要訣であると考えていたし,これと密接な関係がある声音が純正でなければならないと考えていた.

それで,治国の要諦として楽と声音を考えていた為政者達は,『洪武正韻』の序文等に表明されているように,標準音としての正音と正声を設定せねばならないと思っていた.これに加えて,宋儒達と同じように聖人の道を正しく理解するためには,あらゆる学問の基礎である声韻学と文字学に関する理論的な研究から,必ず始めなければならないと認識していた.


この他にも,朝鮮朝の建国初期から,近隣諸国と円滑な外交関係を維持するために司訳院を設置し,訳学政策を椎進する間に,外国の語音を正確に理解するため,これを正しく表記出来る表音文字の必要も強く感じていた.

このようにして,中国声韻学と文字学理論を土台にし,諸国の文字を参考にして,あらゆる必要性を満足させてくれる表音文字(ハングル)を作り,新しい文字の解説書である『訓民正音』を編纂した.これは,かつて他の民族の語文政策では見られない例であった.

固有文字である表音文宇の創成によって,韓民族は初めて自由自在に表記生活なするようになり,韓国語によるすぐれた文章語も育成し得る道が開かれた.実際に,ハングルが作られた後,色々な難しい漢文書籍をやさしく翻訳することが出来るようになり,訓民・教化事業も順調に椎進されるようになった.特に,ハングル創制の直後に作られたr龍飛御天歌』と『月印千江之曲
朝鮮朝500年の間,対外関係に必要な訳学書(対訳書又は対訳辞典)が絶えまなく発行されるようになった。

ハングルの成立と歴史 67p

2011年5月11日水曜日

日本は韓国語を奪ったのか

先日金大中の自伝2を読んでいたら、日本の植民地時代、日本は韓国語、朝鮮語を奪ったと書いてあった。これについて論議するつもりはない。
結果的に奪ったのかもしれない。それは否定できない。常に加害者の立場を忘れてはいけないだろう。

しかし、朝鮮総督府は朝鮮語辞典というものを発行していた。

復刻もされている。
朝鮮語辞典  
朝鮮総督府
国書刊行会
[書籍]   \15750(税込)  


以下の記事を見ると、ハングルは死滅したのではなかったようだ。



2008/8/24 朝鮮日報

ハングル学会が100周年

国失ってもハングル失わず
1926年「ハングルの日」制定、33年にはハングル正書法の統一案
創立100周年に合わせ展示会・追慕展・国際学術大会も

 1908年(隆煕2年)8月31日、ソウル西大門付近の奉元寺に青年らが集まった。普段から「言葉と文字を失ったら民族も滅亡する」と教えていた国語学者の白泉・周時経(1876‐1914)が運営していた夏季国語講習所の卒業生と、国語の研究に関心を持つ人々だった。この夏期講習所(1907‐17)は、崔鉉培(チェ・ヒョンベ)、李秉岐(イ・ビョンギ)、玄相允(ヒョン・サンユン)、キム・ドゥボンら数多くの人材を輩出した。この日奉元寺に集まった人々は、金廷鎮(キム・ジョンジン)を会長とする「国語研究学会」を創立した。これが以後100年続くことになるハングル学会の母体となった。

 国語研究学会は1911年9月3日に「倍達ことばの芽」、13年3月23日に「ハングルの苗」と改称、さらに21年12月3月には「朝鮮語研究会」、31年1月10日には「朝鮮語学会」となり、そして49年9月25日に「ハングル学会」へと変わった。

 ハングル学会は、日帝統治下の厳しい状況にあっても韓国の言葉と文字を守り、「言葉と文字を失わない限り民族は滅亡しない」ということを示してくれた歴史の象徴でもある。彼らは26年に「ハングルの日」を制定し、翌27年には学術誌『ハングル』を創刊、33年には現在でもハングル表記の基準となっている「ハングル正書法統一案」を作り出した。42年には、崔鉉培、李熙昇(イ・ヒスン)、李克魯(イ・グクロ)、李允宰(イ・ユンジェ)ら33人が日帝により検挙される「朝鮮語学会事件」が起こり、極めて大きな苦難に直面した。

 この事件により、29年に始まった『朝鮮語大辞典』の編纂事業が一時中断したが、光復(日本の植民地支配からの解放)直後、ソウル駅の倉庫から日帝に奪われた辞典の原稿が劇的に発見された。発見された原稿は、原稿用紙2万6500枚分にもなった。そうして57年、ついに全6巻の『大辞典』が刊行された。その後もハングル学会は『韓国地名大辞典』(91年)、『韓国語辞典』(2005年)を編纂するとともに、機関誌『ハングル』(季刊)を発行し教育事業を展開するなど、活発に活動している。

 ハングル学会(金昇坤〈キム・スンゴン〉会長)は、「創立100周年」に合わせ多彩な記念行事を用意している。今月25日から10月5日まで、ソウル市東大門区淸凉里洞の世宗大王記念館で開かれる「100周年記念展示会」では、学会の歴史を一目で見ることができる文献や図書、書道の作品が展示される。22日午後5時には、ソウル市鍾路区新門路1街のハングル会館で「ハングル学会を導いた師の追慕展」が始まる。

 また、29日と30日の二日間にわたり建国大(ソウル広津区)の新千年館で国際学術大会が開催され、イギリス・ロンドン大のステファン・クノップ、高麗大のホン・ジョンソン、春川教育大の李義道(リ・イド)といった学者が発表者として登場する。30日午後5時には、同じく建国大新千年館で100周年記念式が開かれ、31日午後2時には奉元寺で石碑の除幕式が行われる。29日には郵政事業本部が記念切手を発行する予定だ。

2011年5月10日火曜日

韓国は世界最高水準の文解率を誇る。

2008/12/24(水) 21:33:14 ID:c99V0YMQ
ハングルをまったく読めなかったり、ハングルの文章読解力がほとんどない韓国人が
260万人に達することがわかった。国立国語院が全国の成人(19~79歳)
1万2137人を対象に9月から11月にかけて実施した基礎文解力調査の結果から
わかった。
国立国語院が23日に明らかにしたところによると、非文解率(=非識字率)は成人
人口の1.7%(約62万人)と集計された。これは1966年の8.9%、70年の
7%に比べ大きく減っており、国連開発計画(UNDP)が95~2000年に調査した
先進国の平均値1.4%に近づいている。
この調査で、半文解者の割合は5.3%(約198万人)となった。ハングルは読めるが、
文章を理解する能力がほとんどない人たちだ。国立国語院は、「銀行や官公庁で書類を
作成するなど日常生活に必要なことを他人の助けなしで処理するのが難しい人たち」と説明した。
非文解者と半文解者を合わせた260万人余りが、ハングルを活用した日常生活に
困難があるということにはる。今回の成人文解力調査で比較対象とした全国の
中学3年生332人のうち、非文解者は0人(0%)、半文解者は2人(0.6%)にとどまった。
イ・サンギュ院長は、「韓国は世界最高水準の文解率を誇る。しかし外来語や
専門用語の使用が増えており、思っていたよりも多くの国民が文字生活に不便を感じている
ことがわかった」と述べた。国立国語院はこうした調査を基に、来年に国語文化学校など
文字生活教育を強化する方針だ。
今回の調査は70年に統計庁が人口総調査を実施しながら非識字率を調査して以来
38年ぶりに実施された公式調査。

ハングルの歴史

ハングルは日本語でいえば、「ひらがな・カタカナ」にあたる。「偉大なる(=ハン)文字(=グル)」の意味を持つ。ハングルの創始者は朝鮮王朝第4代王、世宗(セジョン)大王だ。この世宗大王は、ハングルだけでなく、日時計や水時計、星を観測する機械、雨の量を計る装置など、民衆のために便利なものを学者達に工夫させ作り上げた人物としても知られている。

 ハングルができる前、当時の韓国では、韓国語と言語体型が異なる中国の漢字が使われていた。しかし漢字を理解できるのは高級官吏など、一部の支配層に限定されており、一般庶民は書くことはおろか読むこともままならなかった。

 このため世宗大王は、一般民衆にも分かりやすい独自の文字を作るため、当時の有名な学者たちを集めハングルを作り上げました。そして1446年10月9日に大々的に公布され、それまでの漢字語ではない、朝鮮語の正確な表記ができるようになったのです。当時はまだハングルという呼称はなく、「訓民正音(フンミンチョンウン)」と呼ばれていましたが当時の知識人たちはこれを「諺文(おんもん)」といって蔑んでいた。

 ハングルという呼称を初めて使ったのは、開化期の国語学者、周時経(チュ・シギョン)。周時経は39歳という若さで亡くなる。多くのハングル学者は彼の弟子から出るようになった。
1970年には大統領令により「訓民正音」が公布された10月9日を「ハングルの日」に制定。世宗大王の功績を称えるとともに、ハングルの普及・研究を奨励する日として、作文コンクールなどが行われている。

2011年5月7日土曜日

訓民正音

訓民正音とは民衆に教える正しい音という意味であり、朝鮮王朝第4代の王である世宗が当時使用されていた漢字が韓国語と構造が異なる中国語表記による文字体系であったため、多くの民衆たちが学んだり使ったりできない事実を残念に思い、世宗25年(西暦1443年)に韓国語の表記に適合した文字体系を完成させて『訓民正音』と命名しました。当時は自国のものを使うという考え方も広まっていた。

訓民正音、すなわちハングルは28字からなる文字で、現在では4字が使用されず、24字だけ使われていますが、すべての音を完璧に表記できるだけでなく習いやすくまた使いやすい文字体系です。文字体系自体も独創的かつ科学的だと認められており、その意義が大きいと言えます。

この本は鄭麟趾、申叔舟、成三問、朴彭年、姜希顔など集賢殿の8人の学者が執筆したもので内容をよく見ると2つの部分からなっており、第1部は世宗が著わしたもので本の本文に該当します。本文の内容は新しい文字を創製した目的を明言した訓民正音序文と新しい文字28字を初声11字に分け、順に例示して説明した後、これらを結合して韓国語を表記する方法で示した例句からなっています。第2部は世宗の命令にしたがって若い学者たちが著わした本文に関する注釈です。それは新しい文字の制作原理を説明した制字解、音節の初音を表記する子音17字を説明した初声解、母音11字を説明した終声解、初声・中声・終声が結合して音節を表記する方法を説明した合字解、新しい文字として単語を表記した例を示した用字例の6章に分けられます。最後には鄭麟趾の訓民正音解例本序文がついています。
ハングルのように一定の時期に特定の人がすでに存在している文字から直接に影響を受けないで独創的に新しい文字を作って一国家の公用文字として使用するようにしたのは世界的に類例がないことです。さらに新しい文字に関する解説を本にして出版したことは類例のない歴史的なことでした。
特にこの本で文字を作った原理と文字使用に対する説明に示される理論の整然さと厳正さについては世界の言語学者たちも非常に高く評価しています。 訓民正音は国宝第70号に指定されており、1997年10月にユネスコ世界記録遺産に登録されました。

(Korean Cultural Insights)

2011年5月6日金曜日

長璋吉の単語カード

ハングルを学ぶものにとって、長璋吉氏の名前はよく知られている。イデオロギーではなく、言葉の美しさに目覚め、それを日本に伝えてくれた人だからだ。

彼にはエッセーが二つあり、そのどれも、誠実な姿勢でハングルを見つめている。

彼には朝鮮語の慣用句をまとめたカードがあり、それが今の小学館朝鮮語辞書の原点になったとされる。

うーんおもしろそうだ。東京外大にあるそうな。

http://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/e0eb2d327e740b25d9eecf241f2d482f

2011年4月17日日曜日

朝鮮の薬草とハングル

日本では「ターヘルアナトミア」という医学書を学ぶため、オランダ語との取り組みが始まったことはよく知られている。

そのいきさつは、蘭学事始という本にまとめられている。ほとんどオランダ語が分からない状態の中で、手探りで言葉を探し、4年かかったという。

それではハングルを学ぶことはどこから始まったのだろうか。

その手がかりになるのが「朝鮮薬材調査の研究」という本だ。

以下はその記述。

徳川吉宗が特に関心を持ち、薬材を確認して日本にも持ち込みたいと考えていた。

当時朝鮮の薬材について書かれていたのは韓国の「東医宝鑑」という数巻本だった。

この本は、韓国のテレビドラマでも取り上げられた 浚という人が書いた医学書である。


 当時の江戸幕府は、朝鮮貿易を引き受けていた対馬藩から、本を入手するが、薬材には漢字とハングルが併記されていた。


 朝鮮側は、薬材を自分の国の言葉であるハングルで説明をかけるほど理解していた。しかし日本ではハングルの分かる人間がほとんどおらず、林鳳岡というお抱えの学者が「いろは仮名之様成俗字」とハングルを表現していた。


ちんぷんかんぷんだったのだろう。これを文字に直せばどうなるのかと朝鮮側に尋ねていた。


 63P朝鮮薬材調査の研究
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/sha_fu0026.html

2011年4月14日木曜日

ハングル

チアチア族、ハングル導入2年

 ソウル光化門に位置した世宗大王像の下、「世宗話展示館」には、「チアチア
族ハングルの話」コーナーが用意されている。ここには、「チアチア族は固有の
言語を持っていたが、表記する文字がなかった。彼らは固有語を保存するために、
ラテン語やアラビア語より固有言語の発音と意味をよく生かせるハングルを2009
年8月に公式文字として採択した」と記されている。

 コーナーには、「彼らのハングル教育は韓国人先生の現地派遣でより一層拡大
する展望だ」と記録されている。

 ところで現実は全くそうではない。現地に派遣されたのは、韓国教師はなくて、
ハングルがチアチア族の公式文字でもない。ハングル教育をより一層拡大するた
めの様々な約束も、大部分守られないでいる。

 12日、関連学界専門家などによれば、バウバウ市での世宗学堂設立作業は遅々
として進まない。

 李明博(イ・ミョンバク)大統領はチアチア族のハングル導入翌年の2009年、ハ
ングルの日祝辞で「ハングルはもう、文字がない言語の新しい文字になっている」
として、「世界各国でハングルを習おうと思う人々がハングルを簡単に学び、ハ
ングルを世界に広く知らしめられるように、世宗学堂を拡大設置していく」と明
らかにした。

 世宗学堂は韓国語を習おうとする外国人たちのために、海外に教育機関を作っ
て、教育するプログラムだ。政府は2015年まで500個の世宗学堂をたてる計画だ。

 だが、今年初め、チアチア族を対象に韓国語教育をするとし、文化体育観光部
に世宗学堂事業を申請したA文化財団とB大学がともに「保留」の判定を受けた。
互いに事業がバッティングした結果だ。

 結果的に1年に3月学期と9月学期に合わせて、2回審査が行われる世宗学堂事業
は、はやくても5カ月はかかることになる。

 世宗学堂が建てられれば、年間3000万~5000万ウォンの国費支援を受けて、安
定したハングル教育が可能だ。

 草創期のハングル普及に積極的に参加意思を明らかにしたソウル市も今は「遠
い山を見るようだ」という。

 呉世勲(オ・セフン)ソウル市長は2009年12月、バウバウ市と交流意向書を締結
した後、「チアチア族のハングル使用が成功的に定着するように支援する」と話
した。

 ソウル市はバウバウ市にソウル文化センター設立方案検討とバウバウ市都市開
発事業協力の意思も明らかにした。

 だが、これらの事業は事実上、検討段階で中断された。ソウル市関係者は、
「ハングル教材普及を準備することの他に、ハングル関連事業はなく、チアチア
族招請計画があるだけだ」と明らかにした。

 チアチア族がハングルを「公式採択」したという無責任な広報も問題だ。チア
チア族は現在、ハングルを「非正規科目」に分類して、希望する生徒だけが授業
を聞いている。

 朴ヒ西原大教授は、「インドネシアには種族が多く、ハングル導入を喜ばない
勢力もあって、気を付けなければならない」と憂慮した。

 文化観光部関係者は、やはり「韓国がチアチア族を公式に支援するには不便な
部分がある」と話した。

 バウバウ市の政治事情も今後、ハングル定着にそんなに友好的でない。ソン・
スンウォン西江大教授は、「初めてハングルを積極的に導入したタミム・バウバ
ウ市長が2013年に変わる」として、「今のように進行されれば、ハングル定着が
難しいこともある」と憂慮した。
世界日報より

盧武鉉の評価

倒れゆく韓国 という本を読んでいたら、盧武鉉が亡くなった後の焼香に筆者が言ったら30分待たされた。3時間待つ人もいた。こんなに一般人が、その死を悲しんだ大統領はいないと書いてあった。

盧武鉉を「どぶ川から龍が出た」とも書いてあった。劣悪な家庭環境から大統領が輩出されるという「どぶ川の伝統」で韓国の歴史を見るのもおもしろい。歴史の事象を縦に切っている見方が新鮮だ。

その他彼の視点は、ニューライト、キャンドル集会、スパイ拷問、土建族、憲法精神、怪談、教育、キャンドル集会、そして盧武鉉。

今後参考になりそうな分類の方法だ。

2011年4月13日水曜日

芳州の勉強法はこの本の中の韓学生員任用帳にある。

朝鮮語教授法に関する雨森豆州の指示は,次の一つが今
に残されているだけであるe入門期においては,
[資料19]「三四十日程之間,朝鮮言葉一句或ハ上士,読書
     二三十字,或ハ四五十字程論り毎日教候而,生
     質之十方,不得方を試ミ,~~」(『心学議員任用
     帳』泉一22頁)
とある。これだけの記述から豆州の考えの全貌を知り得な
いが,この方法は要するにオーディオ・リンガル・メソッ
ドを主とした練習方法であると思われる。入門期の,およ
そ一ヶ月の間,毎日,表現文型・構造文型を反復練習する
方法(ドリル)で,少しずつ代入練習などへと拡大するや
り方であろう。われわれの推定が,そう大きく正解からは
ずれていない証拠として,
[資料2G]「凡教初学者量度才能或二三行或四五行多者不
    過,十行其専要暗記,不求速成者,在教人、之法,
    忌詞如此一面也」(『芳州先生文抄』巻之二,「音
    読要訣抄」,泉一 115頁)
として,中国語学習の例を挙げているが,『交隣須知』等の
例文に見るとおり,本質的には朝鮮語学習も同様に取り扱
うべきであると考えていたに違いない.








関西大学東西学術研究所資料集刊  11-3 芳洲外交関係資料・書翰集
-雨森芳洲全書三-

泉 澄一
中村 幸彦
水田 紀久 編

判 型A5判函入
ページ350頁
定 価7,875円 (本体 7,500円)
ISBN4-87354-072-0
分類コードC3021
刊行年月1982年3月
鎖国期のわが国では、長崎貿易と対馬外交とが二大対外 活動だった。すぐれた語学の才をもって対馬藩に仕え、互恵対等の信念を貫いて生涯任地で活躍し、海彼にまで その名を知られた雨森芳洲(1668~1755)の詩文・随筆・外交関係資料・書翰類を集大成した。第1巻は朝鮮使節 との唱酬詩文、第2巻は文集随筆、第3巻は朝鮮外交に関する史料および書翰類、第4巻は第3巻に収録できな かった「裁判記録」の続編など外交関係史料を収録した。各巻に解説を付す。

雨森芳洲外交関係資料集
1 斛一件覚書  2 韓学生員任用帳  3 朝鮮風俗考
4 享保六辛丑年 雨森東五郎朝鮮佐役被差免候節差出候書付
5 交隣提醒  6 裁判記録一 裁判記録二 裁判記録三
7 隣交始末物語、隣交始末物語句解  8 詞稽古之者仕立記録
9 信使停止之覚書

雨森芳洲書翰集
1 三月朔日付  2 四月六日付  3 三月十一日付  4 二月十日付
5 十月三日付  6 四月八日付  7 九月五日付  8 無日付
9 九月六日付  10 六月十九日付  11 三月二十九日付
12 十一月二十日付  13 二月十五日付  14 三月三日付


https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/8595/1/scs03p149.pdf