2011年7月10日日曜日

東学党の乱を考える

この乱は農民一揆のように考えられているが、実は韓国の民衆史の中で初めて本格的な民衆蜂起だった。

甲午農民戦争ともよばれ朝鮮近代史の大きな転換点であった。一九八〇年代、韓国の民主化運動が進展するなか、甲午農民戦争を近代民衆運動の出発点としてとらえる評価は、すっかり定着した感がある。私たちはやはり、偉大な緑豆将軍をしのんで今も歌いつがれている。

  鳥よ 鳥よ 青鳥よ

  緑豆の畠に下り立つな

  緑豆の花がホロホロ散れば

  青餔売り婆さん泣いて行く

    (日本語訳は、金素雲訳編『朝鮮童謡選』岩波文庫、による)

首謀者の

全●準ぜん ほうじゅん、1854年 - 1895年)は、朝鮮国(李朝)後期の人物。東学の主要人物で、甲午農民戦争の契機をつくった。
生涯

1854年、全羅北道の泰仁で生まれた。東学の地方幹部であった彼は、暴政を行う役人に対する憤りから、1894年に農民を統率して郡庁を襲撃した。これを契機として甲午農民戦争が勃発した。その後まもなく日本と清朝がともに出兵したこともあり、一旦は全州和約を結んで政府と和した(但し和約を結んだとする一次資料は発見されていない)。しかし、親日的な開化派政権が成立すると、再び蜂起して抵抗を続けた。最終的には逮捕され、漢城(ソウル)で1895年に処刑された。

東学が一般大衆に広がった理由のひとつは、その教理の単純なことによる。即ち、儒学の修得が長い年月と相当の財力を必要とするのに比べて、東学において、その真理に達するための修養方法は、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった。東学教徒たちは天主(ハヌニム、「天の神」、朝鮮における古代からのシャーマニズムに由来する概念)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた。

また山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦いに備えるため木剣を持って剣舞をならった。しかし、東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。

以下は、日本の或る陸軍将校が記録した全?準の言葉である。

我々は閔(みん)氏一族が民を思わず恣(ほしいまま)に私腹(しふく)を肥(こ)やしているのを見て憤慨(ふんがい)している。この閔氏一族を斥(しりぞ)けるようしばしば政府に直訴(じきそ)したが、無視され続けた。これは、宮廷にいる閔氏一族が邪魔をして我々の訴えを国王に伝えないからであろうと思った。それで君側の奸(くんそくのかん=国王のそばにいて政治を私物化している人物)を除(のぞ)くために挙兵(きよへい)したのである。
しかし、我らの挙兵は、思いがけず日本と清の軍隊を国内に呼び込む結果となった。こういう結果を招いたのは、たいへん残念なことである。
 http://www.jiyuushikan.org/jugyo/jugyo80.html

日本人では内田良平が参加している。

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