2011年4月17日日曜日

朝鮮の薬草とハングル

日本では「ターヘルアナトミア」という医学書を学ぶため、オランダ語との取り組みが始まったことはよく知られている。

そのいきさつは、蘭学事始という本にまとめられている。ほとんどオランダ語が分からない状態の中で、手探りで言葉を探し、4年かかったという。

それではハングルを学ぶことはどこから始まったのだろうか。

その手がかりになるのが「朝鮮薬材調査の研究」という本だ。

以下はその記述。

徳川吉宗が特に関心を持ち、薬材を確認して日本にも持ち込みたいと考えていた。

当時朝鮮の薬材について書かれていたのは韓国の「東医宝鑑」という数巻本だった。

この本は、韓国のテレビドラマでも取り上げられた 浚という人が書いた医学書である。


 当時の江戸幕府は、朝鮮貿易を引き受けていた対馬藩から、本を入手するが、薬材には漢字とハングルが併記されていた。


 朝鮮側は、薬材を自分の国の言葉であるハングルで説明をかけるほど理解していた。しかし日本ではハングルの分かる人間がほとんどおらず、林鳳岡というお抱えの学者が「いろは仮名之様成俗字」とハングルを表現していた。


ちんぷんかんぷんだったのだろう。これを文字に直せばどうなるのかと朝鮮側に尋ねていた。


 63P朝鮮薬材調査の研究
http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/sha_fu0026.html

2011年4月14日木曜日

ハングル

チアチア族、ハングル導入2年

 ソウル光化門に位置した世宗大王像の下、「世宗話展示館」には、「チアチア
族ハングルの話」コーナーが用意されている。ここには、「チアチア族は固有の
言語を持っていたが、表記する文字がなかった。彼らは固有語を保存するために、
ラテン語やアラビア語より固有言語の発音と意味をよく生かせるハングルを2009
年8月に公式文字として採択した」と記されている。

 コーナーには、「彼らのハングル教育は韓国人先生の現地派遣でより一層拡大
する展望だ」と記録されている。

 ところで現実は全くそうではない。現地に派遣されたのは、韓国教師はなくて、
ハングルがチアチア族の公式文字でもない。ハングル教育をより一層拡大するた
めの様々な約束も、大部分守られないでいる。

 12日、関連学界専門家などによれば、バウバウ市での世宗学堂設立作業は遅々
として進まない。

 李明博(イ・ミョンバク)大統領はチアチア族のハングル導入翌年の2009年、ハ
ングルの日祝辞で「ハングルはもう、文字がない言語の新しい文字になっている」
として、「世界各国でハングルを習おうと思う人々がハングルを簡単に学び、ハ
ングルを世界に広く知らしめられるように、世宗学堂を拡大設置していく」と明
らかにした。

 世宗学堂は韓国語を習おうとする外国人たちのために、海外に教育機関を作っ
て、教育するプログラムだ。政府は2015年まで500個の世宗学堂をたてる計画だ。

 だが、今年初め、チアチア族を対象に韓国語教育をするとし、文化体育観光部
に世宗学堂事業を申請したA文化財団とB大学がともに「保留」の判定を受けた。
互いに事業がバッティングした結果だ。

 結果的に1年に3月学期と9月学期に合わせて、2回審査が行われる世宗学堂事業
は、はやくても5カ月はかかることになる。

 世宗学堂が建てられれば、年間3000万~5000万ウォンの国費支援を受けて、安
定したハングル教育が可能だ。

 草創期のハングル普及に積極的に参加意思を明らかにしたソウル市も今は「遠
い山を見るようだ」という。

 呉世勲(オ・セフン)ソウル市長は2009年12月、バウバウ市と交流意向書を締結
した後、「チアチア族のハングル使用が成功的に定着するように支援する」と話
した。

 ソウル市はバウバウ市にソウル文化センター設立方案検討とバウバウ市都市開
発事業協力の意思も明らかにした。

 だが、これらの事業は事実上、検討段階で中断された。ソウル市関係者は、
「ハングル教材普及を準備することの他に、ハングル関連事業はなく、チアチア
族招請計画があるだけだ」と明らかにした。

 チアチア族がハングルを「公式採択」したという無責任な広報も問題だ。チア
チア族は現在、ハングルを「非正規科目」に分類して、希望する生徒だけが授業
を聞いている。

 朴ヒ西原大教授は、「インドネシアには種族が多く、ハングル導入を喜ばない
勢力もあって、気を付けなければならない」と憂慮した。

 文化観光部関係者は、やはり「韓国がチアチア族を公式に支援するには不便な
部分がある」と話した。

 バウバウ市の政治事情も今後、ハングル定着にそんなに友好的でない。ソン・
スンウォン西江大教授は、「初めてハングルを積極的に導入したタミム・バウバ
ウ市長が2013年に変わる」として、「今のように進行されれば、ハングル定着が
難しいこともある」と憂慮した。
世界日報より

盧武鉉の評価

倒れゆく韓国 という本を読んでいたら、盧武鉉が亡くなった後の焼香に筆者が言ったら30分待たされた。3時間待つ人もいた。こんなに一般人が、その死を悲しんだ大統領はいないと書いてあった。

盧武鉉を「どぶ川から龍が出た」とも書いてあった。劣悪な家庭環境から大統領が輩出されるという「どぶ川の伝統」で韓国の歴史を見るのもおもしろい。歴史の事象を縦に切っている見方が新鮮だ。

その他彼の視点は、ニューライト、キャンドル集会、スパイ拷問、土建族、憲法精神、怪談、教育、キャンドル集会、そして盧武鉉。

今後参考になりそうな分類の方法だ。

2011年4月13日水曜日

芳州の勉強法はこの本の中の韓学生員任用帳にある。

朝鮮語教授法に関する雨森豆州の指示は,次の一つが今
に残されているだけであるe入門期においては,
[資料19]「三四十日程之間,朝鮮言葉一句或ハ上士,読書
     二三十字,或ハ四五十字程論り毎日教候而,生
     質之十方,不得方を試ミ,~~」(『心学議員任用
     帳』泉一22頁)
とある。これだけの記述から豆州の考えの全貌を知り得な
いが,この方法は要するにオーディオ・リンガル・メソッ
ドを主とした練習方法であると思われる。入門期の,およ
そ一ヶ月の間,毎日,表現文型・構造文型を反復練習する
方法(ドリル)で,少しずつ代入練習などへと拡大するや
り方であろう。われわれの推定が,そう大きく正解からは
ずれていない証拠として,
[資料2G]「凡教初学者量度才能或二三行或四五行多者不
    過,十行其専要暗記,不求速成者,在教人、之法,
    忌詞如此一面也」(『芳州先生文抄』巻之二,「音
    読要訣抄」,泉一 115頁)
として,中国語学習の例を挙げているが,『交隣須知』等の
例文に見るとおり,本質的には朝鮮語学習も同様に取り扱
うべきであると考えていたに違いない.








関西大学東西学術研究所資料集刊  11-3 芳洲外交関係資料・書翰集
-雨森芳洲全書三-

泉 澄一
中村 幸彦
水田 紀久 編

判 型A5判函入
ページ350頁
定 価7,875円 (本体 7,500円)
ISBN4-87354-072-0
分類コードC3021
刊行年月1982年3月
鎖国期のわが国では、長崎貿易と対馬外交とが二大対外 活動だった。すぐれた語学の才をもって対馬藩に仕え、互恵対等の信念を貫いて生涯任地で活躍し、海彼にまで その名を知られた雨森芳洲(1668~1755)の詩文・随筆・外交関係資料・書翰類を集大成した。第1巻は朝鮮使節 との唱酬詩文、第2巻は文集随筆、第3巻は朝鮮外交に関する史料および書翰類、第4巻は第3巻に収録できな かった「裁判記録」の続編など外交関係史料を収録した。各巻に解説を付す。

雨森芳洲外交関係資料集
1 斛一件覚書  2 韓学生員任用帳  3 朝鮮風俗考
4 享保六辛丑年 雨森東五郎朝鮮佐役被差免候節差出候書付
5 交隣提醒  6 裁判記録一 裁判記録二 裁判記録三
7 隣交始末物語、隣交始末物語句解  8 詞稽古之者仕立記録
9 信使停止之覚書

雨森芳洲書翰集
1 三月朔日付  2 四月六日付  3 三月十一日付  4 二月十日付
5 十月三日付  6 四月八日付  7 九月五日付  8 無日付
9 九月六日付  10 六月十九日付  11 三月二十九日付
12 十一月二十日付  13 二月十五日付  14 三月三日付


https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/8595/1/scs03p149.pdf

2011年4月7日木曜日

岩波新書 創氏改名

一般的に創氏改名をひとくくりに「日本風の名前をなのるようにさせた」と説明しているが、日本側の狙いは、朝鮮の家族制度を日本風に改め、天皇に従い、軍の一員として組み込んでいく狙いがあったことが分かる。
氏を作ることには熱心だった日本は、名前まで日本風にすることには消極的だった。それは当時の朝鮮の人たちが、完全に日本人いなると治安上困ったからだ。
強制であったか、なかったかという議論が多いが、日本政府の狙いをしっかり考えるべきだろう。
非常に示唆に富む本だった。

2011年4月6日水曜日

伊藤博文と安重根

日韓併合に向かう上で果たした伊藤博文と安重根の主張と役割を再度振り返ってみます。


貧農生まれの利助。
伊藤博文の一生
(1841年)  現山口県の束荷(つかり)に生まれる
(1857年)  松下村塾に入り、吉田松陰の教えを受ける
明治元年
(1868年)  明治政府の参与に就任
明治6年
(1873年)  参議に就任
明治18年
(1885年)
初代内閣総理大臣に就任
明治28年
(1895年)
日清講和条約に調印
伊藤博文は、外務大臣の陸奥宗光とともに、日清講和条約に調印しました。
明治34年
(1901年)
ロシアを訪問し、満州および朝鮮の利権について討議する
表 題:満州ニ於ケル露国ノ事業
明治38年
(1905年)
韓国統監に就任
日露戦争が終わると、日本は韓国に対して大きな影響力を行使すべく、韓国に統監府を設置しました。
明治42年
(1909年)
没(68歳)
林利助
1853年(13歳) 裏が沖に黒船
尊皇 攘夷の争い

松下村塾 山口県萩市
イギリス密航
幕府が攘夷を決める
英国に渡る
長州は攘夷 坂本龍馬が薩長を取り持つ

変名●改名および変名一覧          (時期的に、ダブって使われていた時もあったようです)         ○林(伊藤)利助(利介・利輔)…幼名        ○伊藤俊輔(舜輔)…文久2年から同2年ごろまで使用        ○越智斧太郎…文久2年、彦根藩偵察の際の変名        ○伊藤春輔…文久2年から慶応元年ごろまで使用        ○花山春輔…元治元年帰国直後の変名        ○デポナー…元治元年帰国上陸の際の変名        ○花山春太郎…慶応元年、岩国へ向かう際の変名        ○吉村荘蔵…慶応元年、長崎滞在の際の変名        ○林宇一…慶応2年から3年ごろまで使用        ○伊藤俊介…明治元年から2年ごろまで使用        ○伊藤博文…明治元年9月ごろから使用 論語から        ○春畝…雅号
岩倉使節団に参加
ビスマルクの現実論
正義をとなえながら小国を無視していると批判
外交と戦争で揺れ動く→軟弱との批判

同情だ 韓国語を学べ 文化を奪ってはいけない。186-190 暗殺伊藤博文

憲法と国会ー初代首相に
1881年(明治14年)10年後に国会を開くと宣言 
ドイツを参考に 皇帝に大きな権限
ビスマルクを尊敬 
大日本国憲法
ニューヨーク ボストン シカゴ ワシントン サンフランシスコ サクラメント ホンコン上海 サイゴン シンガポール アデン マルセイユ リバプール ポートサイド
日露戦争に反対
大和民族は特別で、他国の正当な権利と利益を無視して傍若無人の行動にでるなら、国を誤るは火を見るように明らかだ。 「伊藤博文 直話」 269p
壬午軍乱と甲申政変
日本も仁川に兵を駐留
清国との緊張
勝海舟は中国の経済力に着目していた。
下関条約

115p 暗殺・伊藤博文
金玉均
日本式の改革を標榜
クーデターおこすが3日天下
日本に逃げた後、上海で殺害
閔妃暗殺
当時の韓国の実力女帝
日本公使らが殺害、その様子を目撃される。
韓国をロシアに与えるとの印象
金玉均の弔い合戦
第二次日韓協約

日清戦争1894-95年
日ロ戦争1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日) 
朝鮮権益めぐる争い
1905年 併合へ推進
「拒否すれば不利益な結果」と当時の高宗皇帝に迫る。
ハルピン駅頭で暗殺
1909年10月26日 三発の銃声を浴びる
6月には韓国統監を辞職
日ロ戦争での死者を悼む
68歳
韓国でも新たな評価
抗日運動の英雄
日韓で違う評価
15の理由を挙げた。


東洋平和論
安重根は、未完成の原稿「東洋平和論」で、「おおよそ、合わされば成功し散らばれば敗亡するというのは万古の道理だ」と前置きした上で、19世紀以来の西欧帝国主義の侵略に立ち向かい、東アジアを守るには、韓中日3国が力を合わせるべきだと力説した。安重根は、旅順に韓中日3国が参加する東洋平和会議を設置すること、3国共同の銀行を創設し、共用の貨幣を発行すること、3国の若者で共同の軍隊を編成し、各国の言語を教えること、韓国と清は西洋文物の受容で先行している日本の指導下で商工業の発展を試みること-など、具体的な案を提示した。

千葉十七
1 韓国のミン皇后を殺害した罪です。      2 韓国皇帝を廃位させた罪です。      3 5条約と7条約を強制的に結んだ罪です。      4 罪のない韓国人たちを虐殺した罪です。      5 政権を強制的に奪った罪です。      6 鉄道,鉱山,山林を強制的に奪った罪です。      7 第一銀行券紙幣を強制的に使った罪です。      8 軍隊を解散させた罪です。      9 教育を邪魔した罪です。      10 韓国人たちの外国留学を禁止した罪です。      11 教科書を押収して燃やしてしまった罪です。      12 韓国人が日本人の保護を受けようと思うと世界に嘘をまき散らした罪です。      13 現在,韓国と日本の間で競争が休みなく,殺戮が絶えないのに,泰平無事なように上に       天皇を欺いた罪です。      14 東洋平和を破った罪です。      15 日本天皇陛下の父である太皇帝を殺した罪です。
一進会の合併嘆願書
1904年から1910年まで大韓帝国で活動した当時最大の政治結社。韓国では一般に親日団体とみなされる。
宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国の力を借りてでも韓国の近代化を目指す方向に傾きつつあった開化派の人々が設立した団体。中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった日本に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。
当時、大韓帝国では最も大きな政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人だった[1]が、一説には実数は4000人未満にすぎなかったとの見解もある。反発大きく嘆願は受け入れられなかった。
宮城県大林寺
「安重根義士と千葉氏の顕彰碑文」は下記のとおりです 伊藤博文公は彼の手のもとハルピン駅頭に殉じた。  相対立するこの現実の中で総監府陸軍憲兵の任にあった本郷出身(栗駒町)千葉十七氏(当時25歳)は旅順獄中に囚われ身となっていた安重根義士(当時30歳)を看守する役目にあった。  実
千葉氏の目に映った獄中の安義士の挙動は正に国の運命を憂い民族の独立と名誉を守るため身を捧げた清廉なる人格の士であり時に語る平和への高邁なる理念には強く胸を打たれた。義士を称える事が公然とできぬ当時の情勢にありながら千葉氏は義士に同情を禁じ得ず心ひそかに尊敬の念さえ抱くに至り出来得る限り労を尽くして、やがて刑場に消えゆくであろうその身を惜しんだ。  義士もまた、当時の日本人としては珍しい千葉氏の人間性あふれる知遇に応え3月26日死に赴く直前、軍人たる千葉氏にふさわしい一文を墨して贈った。曰く
為国献身軍人本分(国のため身を献げるは軍人の本分なり)
千葉氏長じて帰郷の後も義士の遺影と墨書を仏壇に供え日々香を献さげ死せる人の冥福を祈るとともに日韓両国の独立した名誉ある親善と平和の来らん事を祈念して若柳町大林(旧大岡村)に死した。きつよ未亡人もまた其の意を体し此れに夫の遺影を加え夫がなせるが如く日々香を献げ冥福を祈りつつ世を去った。千葉夫妻の行なえる美挙は死後にも其の一族に強く訴えるところあり、幾多の困難にあいつつも千葉氏の意を汲み義士の遺墨を70年に渡って大切に保管し続けた。  1979年安重根義士生誕100周年の祝典を聞き意を決した三浦幸喜くに子夫妻ら千葉十七氏の遺族は東京韓国研究院を通じて故国の首都ソウルに鎮座する安重根義士崇慕館に此の遺墨を供えた。
国にとって貴重なる遺品を其の国の国民に還したこの挙を記念し安重根義士並びに千葉十七氏の希なる篤行を顕彰すべく日本の文化人、政治家、日本居住韓国人並びに宮城県の有志たちにより千葉氏の眠る若柳町大林寺の此の碑を建立した。
安義士の命日に際し日韓両国永遠の友好を祈念して         1981年3月26日 宮城県知事 山本壮一郎

安重根の石碑
各地に記念館
韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に「安重根」を用いている
もし暗殺に失敗していたら

征韓論の台頭

ここではなぜ征韓論が日本で生まれたか、その歴史的背景と主張を詳細にみることにします。

江戸から明治へ
[1853年]ペリー浦賀に来航[1854年]日米和親条約
[1858年]日米修好通商条約
1868年]大院君が景福宮を完成させる
[1863-1907年]第26代 高宗[고종](12歳で王になる)
 明治時代(1868-1912)
[1860年]桜田門外の変
[1866年]薩長同盟
[1867年]大政奉還、王政復古
[1868年]明治維新
[1868-69年]戊信戦争 五箇条の御誓文
[1869年]版籍奉還
[1873年]大院君を追放

●征韓論の台頭
中国、韓国蔑視 古事記、日本書紀にも
朝鮮通信史もあったのになぜ。
欧米列強からの圧力を外に逃す
不平等条約を韓国に押しつける。

●西郷隆盛と勝海舟

大久保利通は反対
勝は武力
なぜ日本は亜細亜に侵略を始めたか
内政優先ー大久保利通
明治11年(1878年)5月14日午前8時10分、明治の元勲、大久保利通は自宅があった裏霞ヶ関の自宅を馬車で出かけた。いまの迎賓館のあたりにあった赤坂仮皇居へ向かうためである。その途中で暗殺された。
征韓論に反対し、内政重視を訴える
田原坂 より
暗殺現場

●福沢諭吉の脱亜論

野蛮との戦いだった。
留学生を招く。
両面、福沢の功罪
ロシアの存在
日清戦争
日ロ戦争
ハーグ国際会議
密使は自決 墓は韓国に
朝鮮国内の混乱
イザベラバードの著作

●なぜ内輪もめしていたか

両班の伝統か
現代に通じる。
●東学党の乱
韓国でどうみられているか
農民パワー 現代に通じる

●韓国で評価される金玉均
非業の最期

●伊藤博文の登場
武力行使は反対 

●「日清戦争と日本による閔妃暗殺
(朝鮮の支配をめぐる日本と清との対立がついに戦争へ)
1894年春 朝鮮で甲午農民戦争、起こる。朝鮮政府は乱の鎮圧を清に依頼。日本も朝鮮在留邦人の保護を名目として軍を派遣。日清両軍の対立。
1894年7月25日 日清戦争始まる。(日本による宣戦布告は8月1日)
1895年4月17日 日清戦争終わる。下関条約の締結。
 下関条約の主な内容
 ・清は朝鮮の独立を認める。(←日朝修好条規と比較せよ) 
 ・清は遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲渡する。 
 ・清は賠償金2億両を金で支払う。
1895年4月23日 三国干渉
(ロシア・ドイツ・フランスが下関条約で日本が奪った遼東半島を清へ返還するよう勧告。) 
1895年10月8日 閔妃暗殺。清に代わってロシアに頼ろうとした閔妃を日本公使らが暗殺。(景福宮にて)
以後、朝鮮には親日政権ができる。閔妃暗殺については、朝鮮だけでなく、列強各国も日本批判を強める。
1896年2月11日 高宗は、今度は自分が暗殺されるのを恐れて、景福宮からロシア公使館に女装で逃亡。
1897年2月20日 高宗はロシア公使館からロシア公使館近くの徳寿宮に移転。
   (退位後の高宗は1919年1月21日、徳寿宮で死去。毒殺説、自殺説あり、これが3・1運動につながる)
1897年10月12日 李氏朝鮮は大韓帝国と名前を変えさせられ、高宗が皇帝となる。
           (1910年の日本による韓国併合まで)
この点に関して、司馬遼太郎さんは次のように言っています。(1972年11月21日の京都での講演)
「一八九七年には朝鮮にとって不幸なことに、李氏朝鮮の王が、皇帝になった。無理やり皇帝にさせられてしまった。皇帝になるということは、朝鮮は中国から独立するのだという宣言でもあります。」

●(参考文献) 『天皇について』  朝日文庫 司馬遼太郎全講演[1]所収p.349
明成皇后
閔妃暗殺の真実