ここではなぜ征韓論が日本で生まれたか、その歴史的背景と主張を詳細にみることにします。
江戸から明治へ
[1853年]ペリー浦賀に来航[1854年]日米和親条約
[1858年]日米修好通商条約
1868年]大院君が景福宮を完成させる
[1863-1907年]第26代 高宗[고종](12歳で王になる)
明治時代(1868-1912)
[1860年]桜田門外の変
[1866年]薩長同盟
[1867年]大政奉還、王政復古
[1868年]明治維新
[1868-69年]戊信戦争 五箇条の御誓文
[1869年]版籍奉還
[1873年]大院君を追放
●征韓論の台頭
中国、韓国蔑視 古事記、日本書紀にも
朝鮮通信史もあったのになぜ。
欧米列強からの圧力を外に逃す
不平等条約を韓国に押しつける。
●西郷隆盛と勝海舟
大久保利通は反対
勝は武力
なぜ日本は亜細亜に侵略を始めたか
内政優先ー大久保利通
明治11年(1878年)5月14日午前8時10分、明治の元勲、大久保利通は自宅があった裏霞ヶ関の自宅を馬車で出かけた。いまの迎賓館のあたりにあった赤坂仮皇居へ向かうためである。その途中で暗殺された。
征韓論に反対し、内政重視を訴える
田原坂 より
暗殺現場
●福沢諭吉の脱亜論
野蛮との戦いだった。
留学生を招く。
両面、福沢の功罪
ロシアの存在
日清戦争
日ロ戦争
ハーグ国際会議
密使は自決 墓は韓国に
朝鮮国内の混乱
イザベラバードの著作
●なぜ内輪もめしていたか
両班の伝統か
現代に通じる。
●東学党の乱
韓国でどうみられているか
農民パワー 現代に通じる
●韓国で評価される金玉均
非業の最期
●伊藤博文の登場
武力行使は反対
●「日清戦争と日本による閔妃暗殺
(朝鮮の支配をめぐる日本と清との対立がついに戦争へ)
1894年春 朝鮮で甲午農民戦争、起こる。朝鮮政府は乱の鎮圧を清に依頼。日本も朝鮮在留邦人の保護を名目として軍を派遣。日清両軍の対立。
1894年7月25日 日清戦争始まる。(日本による宣戦布告は8月1日)
1895年4月17日 日清戦争終わる。下関条約の締結。
下関条約の主な内容
・清は朝鮮の独立を認める。(←日朝修好条規と比較せよ)
・清は遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲渡する。
・清は賠償金2億両を金で支払う。
1895年4月23日 三国干渉
(ロシア・ドイツ・フランスが下関条約で日本が奪った遼東半島を清へ返還するよう勧告。)
1895年10月8日 閔妃暗殺。清に代わってロシアに頼ろうとした閔妃を日本公使らが暗殺。(景福宮にて)
以後、朝鮮には親日政権ができる。閔妃暗殺については、朝鮮だけでなく、列強各国も日本批判を強める。
1896年2月11日 高宗は、今度は自分が暗殺されるのを恐れて、景福宮からロシア公使館に女装で逃亡。
1897年2月20日 高宗はロシア公使館からロシア公使館近くの徳寿宮に移転。
(退位後の高宗は1919年1月21日、徳寿宮で死去。毒殺説、自殺説あり、これが3・1運動につながる)
1897年10月12日 李氏朝鮮は大韓帝国と名前を変えさせられ、高宗が皇帝となる。
(1910年の日本による韓国併合まで)
この点に関して、司馬遼太郎さんは次のように言っています。(1972年11月21日の京都での講演)
「一八九七年には朝鮮にとって不幸なことに、李氏朝鮮の王が、皇帝になった。無理やり皇帝にさせられてしまった。皇帝になるということは、朝鮮は中国から独立するのだという宣言でもあります。」
●(参考文献) 『天皇について』 朝日文庫 司馬遼太郎全講演[1]所収p.349
明成皇后
閔妃暗殺の真実
0 件のコメント:
コメントを投稿