日韓併合に向かう上で果たした伊藤博文と安重根の主張と役割を再度振り返ってみます。
貧農生まれの利助。
伊藤博文の一生
(1841年) 現山口県の束荷(つかり)に生まれる
(1857年) 松下村塾に入り、吉田松陰の教えを受ける
明治元年
(1868年) 明治政府の参与に就任
明治6年
(1873年) 参議に就任
明治18年
(1885年)
初代内閣総理大臣に就任
明治28年
(1895年)
日清講和条約に調印
伊藤博文は、外務大臣の陸奥宗光とともに、日清講和条約に調印しました。
明治34年
(1901年)
ロシアを訪問し、満州および朝鮮の利権について討議する
表 題:満州ニ於ケル露国ノ事業
明治38年
(1905年)
韓国統監に就任
日露戦争が終わると、日本は韓国に対して大きな影響力を行使すべく、韓国に統監府を設置しました。
明治42年
(1909年)
没(68歳)
林利助
1853年(13歳) 裏が沖に黒船
尊皇 攘夷の争い
松下村塾 山口県萩市
イギリス密航
幕府が攘夷を決める
英国に渡る
長州は攘夷 坂本龍馬が薩長を取り持つ
変名●改名および変名一覧 (時期的に、ダブって使われていた時もあったようです) ○林(伊藤)利助(利介・利輔)…幼名 ○伊藤俊輔(舜輔)…文久2年から同2年ごろまで使用 ○越智斧太郎…文久2年、彦根藩偵察の際の変名 ○伊藤春輔…文久2年から慶応元年ごろまで使用 ○花山春輔…元治元年帰国直後の変名 ○デポナー…元治元年帰国上陸の際の変名 ○花山春太郎…慶応元年、岩国へ向かう際の変名 ○吉村荘蔵…慶応元年、長崎滞在の際の変名 ○林宇一…慶応2年から3年ごろまで使用 ○伊藤俊介…明治元年から2年ごろまで使用 ○伊藤博文…明治元年9月ごろから使用 論語から ○春畝…雅号
岩倉使節団に参加
ビスマルクの現実論
正義をとなえながら小国を無視していると批判
外交と戦争で揺れ動く→軟弱との批判
同情だ 韓国語を学べ 文化を奪ってはいけない。186-190 暗殺伊藤博文
憲法と国会ー初代首相に
1881年(明治14年)10年後に国会を開くと宣言
ドイツを参考に 皇帝に大きな権限
ビスマルクを尊敬
大日本国憲法
ニューヨーク ボストン シカゴ ワシントン サンフランシスコ サクラメント ホンコン上海 サイゴン シンガポール アデン マルセイユ リバプール ポートサイド
日露戦争に反対
大和民族は特別で、他国の正当な権利と利益を無視して傍若無人の行動にでるなら、国を誤るは火を見るように明らかだ。 「伊藤博文 直話」 269p
壬午軍乱と甲申政変
日本も仁川に兵を駐留
清国との緊張
勝海舟は中国の経済力に着目していた。
下関条約
115p 暗殺・伊藤博文
金玉均
日本式の改革を標榜
クーデターおこすが3日天下
日本に逃げた後、上海で殺害
閔妃暗殺
当時の韓国の実力女帝
日本公使らが殺害、その様子を目撃される。
韓国をロシアに与えるとの印象
金玉均の弔い合戦
第二次日韓協約
日清戦争1894-95年
日ロ戦争1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)
朝鮮権益めぐる争い
1905年 併合へ推進
「拒否すれば不利益な結果」と当時の高宗皇帝に迫る。
ハルピン駅頭で暗殺
1909年10月26日 三発の銃声を浴びる
6月には韓国統監を辞職
日ロ戦争での死者を悼む
68歳
韓国でも新たな評価
抗日運動の英雄
日韓で違う評価
15の理由を挙げた。
東洋平和論
安重根は、未完成の原稿「東洋平和論」で、「おおよそ、合わされば成功し散らばれば敗亡するというのは万古の道理だ」と前置きした上で、19世紀以来の西欧帝国主義の侵略に立ち向かい、東アジアを守るには、韓中日3国が力を合わせるべきだと力説した。安重根は、旅順に韓中日3国が参加する東洋平和会議を設置すること、3国共同の銀行を創設し、共用の貨幣を発行すること、3国の若者で共同の軍隊を編成し、各国の言語を教えること、韓国と清は西洋文物の受容で先行している日本の指導下で商工業の発展を試みること-など、具体的な案を提示した。
千葉十七
1 韓国のミン皇后を殺害した罪です。 2 韓国皇帝を廃位させた罪です。 3 5条約と7条約を強制的に結んだ罪です。 4 罪のない韓国人たちを虐殺した罪です。 5 政権を強制的に奪った罪です。 6 鉄道,鉱山,山林を強制的に奪った罪です。 7 第一銀行券紙幣を強制的に使った罪です。 8 軍隊を解散させた罪です。 9 教育を邪魔した罪です。 10 韓国人たちの外国留学を禁止した罪です。 11 教科書を押収して燃やしてしまった罪です。 12 韓国人が日本人の保護を受けようと思うと世界に嘘をまき散らした罪です。 13 現在,韓国と日本の間で競争が休みなく,殺戮が絶えないのに,泰平無事なように上に 天皇を欺いた罪です。 14 東洋平和を破った罪です。 15 日本天皇陛下の父である太皇帝を殺した罪です。
一進会の合併嘆願書
1904年から1910年まで大韓帝国で活動した当時最大の政治結社。韓国では一般に親日団体とみなされる。
宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国の力を借りてでも韓国の近代化を目指す方向に傾きつつあった開化派の人々が設立した団体。中でも日清戦争、日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった日本に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。
当時、大韓帝国では最も大きな政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人だった[1]が、一説には実数は4000人未満にすぎなかったとの見解もある。反発大きく嘆願は受け入れられなかった。
宮城県大林寺
「安重根義士と千葉氏の顕彰碑文」は下記のとおりです 伊藤博文公は彼の手のもとハルピン駅頭に殉じた。 相対立するこの現実の中で総監府陸軍憲兵の任にあった本郷出身(栗駒町)千葉十七氏(当時25歳)は旅順獄中に囚われ身となっていた安重根義士(当時30歳)を看守する役目にあった。 実
千葉氏の目に映った獄中の安義士の挙動は正に国の運命を憂い民族の独立と名誉を守るため身を捧げた清廉なる人格の士であり時に語る平和への高邁なる理念には強く胸を打たれた。義士を称える事が公然とできぬ当時の情勢にありながら千葉氏は義士に同情を禁じ得ず心ひそかに尊敬の念さえ抱くに至り出来得る限り労を尽くして、やがて刑場に消えゆくであろうその身を惜しんだ。 義士もまた、当時の日本人としては珍しい千葉氏の人間性あふれる知遇に応え3月26日死に赴く直前、軍人たる千葉氏にふさわしい一文を墨して贈った。曰く
為国献身軍人本分(国のため身を献げるは軍人の本分なり)
千葉氏長じて帰郷の後も義士の遺影と墨書を仏壇に供え日々香を献さげ死せる人の冥福を祈るとともに日韓両国の独立した名誉ある親善と平和の来らん事を祈念して若柳町大林(旧大岡村)に死した。きつよ未亡人もまた其の意を体し此れに夫の遺影を加え夫がなせるが如く日々香を献げ冥福を祈りつつ世を去った。千葉夫妻の行なえる美挙は死後にも其の一族に強く訴えるところあり、幾多の困難にあいつつも千葉氏の意を汲み義士の遺墨を70年に渡って大切に保管し続けた。 1979年安重根義士生誕100周年の祝典を聞き意を決した三浦幸喜くに子夫妻ら千葉十七氏の遺族は東京韓国研究院を通じて故国の首都ソウルに鎮座する安重根義士崇慕館に此の遺墨を供えた。
国にとって貴重なる遺品を其の国の国民に還したこの挙を記念し安重根義士並びに千葉十七氏の希なる篤行を顕彰すべく日本の文化人、政治家、日本居住韓国人並びに宮城県の有志たちにより千葉氏の眠る若柳町大林寺の此の碑を建立した。
安義士の命日に際し日韓両国永遠の友好を祈念して 1981年3月26日 宮城県知事 山本壮一郎
安重根の石碑
各地に記念館
韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に「安重根」を用いている
もし暗殺に失敗していたら
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