2011年6月7日火曜日

朝鮮時代 王は庶民の近くにいた

「直訴と王権」(原武史)を読む。この本は朝鮮王朝時代に、王が民からの直訴を丁寧に受けていたことを書いている。新鮮な視点だった。

日本でも江戸時代直訴はあった。しかし、直訴したものは死刑になった。

朝鮮王朝では、名君とうたわれ、ハングルの創設にも尽力した世宗が「御使」と称して、地方の実情を調べる使節を派遣したのを始め、後生の王も民の意見収集に努力していた。それを儒教の教えと考えていたという。(前書き)

すると金正日総書記が熱心に行っている現地指導も、こういう朝鮮王朝の伝統を受け継いだものといえるのかもしれない。

2011年6月2日木曜日

金大中


韓国の政治家金大中の人生のハイライトは、実は刑務所にいたときではないかと思う。対立する政治家を心の中で許しながら、平穏を得て、読書に邁進する。彼が政治家としての深みを得たのは、あの時代立ったのだと思う。そのことは最新の自伝の346pから記述されている。

2年間に1日10時間、600冊読んだという。

2011年6月1日水曜日

朱子学と朝鮮半島

宋学を大成したのが朱熹(しゅき)で、後に朱子とも言われた(1130~1200)。
日本では平安末期から鎌倉初期のころの人だ。


わずか19歳で科挙に合格した朱熹は泉州同安県の主簿となったあと4年で退官し。李延平に師事し儒学を学び、46歳のとき呂祖謙と共に近思録を著した。

朱熹の理論では宇宙は原理と運動の二つから成り、原理のことを「理」、運動のことを「気」と言います。ここからこの理論を理気二元論とも言う。

朱子は、総合的に論ずれば万物を統括する実態は一つの太極(すべての根源)である。太極とは理であり、その動静は気である。理は根本であり、その後に気が生ずるのだ と言う。

儒教はすなわち、孔子などの言葉を学ぶことだった。朱子学、それまでの儒学とは全く違って、人間とは何かという普遍的なものを探求した。イデオロギー色が強い。根本には「尊王賤覇」がある。「王」即ち皇帝を尊び、覇者を蔑むということだ。


ここまでは一般論。抽象的な論理構成です。韓国はそれまで儒教をさらに道徳的に高め、社会の朱子学化を進めた。改革思考だった。だから「司馬遼太郎のように朝鮮王朝は停滞の500年だったというのは間違い」(大倉紀蔵)という人もいる。

2011年5月29日日曜日

幼児語の共通性


長氏の「普段着の朝鮮語」を読むと、日韓では幼児語に共通性があることがわかる。チチはおっぱい、ウンはうんちプープは車、日韓の子供は通訳が要らないかもしれない。

2011年5月12日木曜日

ハングルをなぜ作ったか


 新しく言葉を作るのにはどのくらいかかるのだろうか、そもそも新しい言葉を作って一般の人たちが使ってくれるのか。

 そんな根本的な疑問を持つけれど、ハングルはそんな大きな障害を乗り越えて現在まできている。

 ハングルの世界という本によれば、ハングルは1443年に始まり、三年後に終わったことになっている。こんなに簡単に新しい言葉ができるのか、筆者も信じていなようだ。

 元々世宗という王は、庶民が自分の意見を自由にいえず、無罪の罪を着せられているというところから始まったようだ。

 これについては、前回も書いたように、学識者から強い反対があった。

 さらに役所も抵抗し使おうとしなかったという。

 反対論者の先鋒は崔万理という人だった。

 彼の主張をようやくすると、勝手に文字を作ると中国との関係が悪くなる。学問が遅れる。言葉ができないからといって無実の罪になるというのは解せない。あまりことを急いではいけない。

 ということだった。

 それでも世宗は押し切った。

ハングル反対論

世宗とハングル
めになると考えていた.それで鄭鱗趾は『訓民正音解例本』序文で,レヽング
ルが作られる前には,漢文書籍を習う人達が,その意昧がわからなくて苦しんだが,ハングルが作られた後には漢文の本を読んでもその意昧がわかるよ
うになった]と説明しているのである.これに対して,崔万理等は次のよう
に反駁した.
① ハングルを使用するようになれば,官吏達がハングルだけ習い,学問に関心を特たないようになるであろう.
② ハングルだけで官吏になることが出来るとすれば,後輩達がこれを見て[二十七字諺文](本文のまま)だけで出世が出来ると考えるだろうから, 何のために苦しみながら「性理之学」を研究するだろうか.
③ このようになったら,数十年後には漢宇を知る人が必ず減ってきて, 「聖賢之文字」を知らない人は事理をわきまえることも出来ないし,我国が築き上げた文化もきれいに亡くなってしまうであろう.このように言ってから,また,
今此諺文 不過新奇一芸耳 於学有損 於治無益 反覆筈之 未見其可 也(今のこの諺文は新奇な一つの芸能であるのみである.それで学問には 害になり政治にも益するところがないから,いくら繰り返して考えてみてもその正しさを知ることが出来ない)として,学問がすたれることを心配している.4)対中国外交と訳学
朝鮮朝は建国初期から,近隣の諸国家と円満な外交関係を維持するのが,重要な国家施策の一つであった.当時の記録者達はこれを「事大交隣」と表現した.しかし,このような外交政策を効果的に展開する為には,これを担当し遂行する人達が,近隣諸国の言語に良く通じている必要があった.
高麗時代にはこのような必要から通文館を設置して漢語(中国語)を教育した.朝鮮朝では1393年(太祖2)9月に司訳院を設置して,外国語の教育に力を注いだ.

世宗 ウィキペディア


世宗(セジョン、せいそう、洪武30年4月10日1397年5月7日) - 景泰元年4月8日1450年5月18日))は、李氏朝鮮の第4代国王世宗大王세종대왕、セジョンデワン)とも言われる。姓は、名は示へんに陶の右)。即位前は忠寧君(チュンニョングン)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン)と呼ばれた。
ハングル訓民正音)の制定を行ったことで知られ、李氏朝鮮の歴代君主中もっとも優れた君主とされる。儒教の理想とする王道政治を展開したとされ、後年「海東の」と称された。しかし一方で女真族への侵略戦争や強制同化策をとり、仏教を弾圧するなど、強硬策も行った。

目次

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生涯 [編集]

即位 [編集]

1397年、第3代国王太宗の第3王子として生まれる。母は元敬王后・閔氏。1406年に成人すると忠寧大君(大君は王の嫡出子に与えられる職官)に封じられ、沈(シム)氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚した。
健康問題を抱えた父・太宗には何度か譲位を行う意向があったが、外戚との確執や長男の譲寧大君(ヤンニョンデグン)の奔放な性格が問題となり、なかなか行われなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子(セジャ、王太子)の資格を剥奪し、三男の世宗に譲位した。
世宗即位当初の4年間は、上王となった太宗が軍事権をはじめ政治の実権を握っていた。1422年に太宗が亡くなると、世宗の親政が始まることになる。

内政 [編集]

世宗は宮中に学問研究所として集賢殿(チッピョンジョン)を設置し、ここに若く有望な儒学者や官奴、外国人らを採用してさまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、李朝の文化と文治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した(後述)。とくに、集賢殿の鄭麟趾(チョン・インジ)らに命じて創製したハングル(訓民正音)が知られている。
1425年には朝鮮通宝を鋳造し、貨幣経済の浸透を試みた。また、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を設置して李朝の田税制度を定めた。
1437年になると世宗自体の健康問題もあり、六曹直啓制(省庁を王が直接統括する制度)を議政府署事制(領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式)に変更し、王の国事の負担を軽くし、権力を分散させた。

対外関係 [編集]

日本との関係に関しては、朝鮮の海岸を荒らしていた倭寇の取り締まり問題に関する対立が引き金となり、即位翌年の1419年に対馬への攻撃が行われている(応永の外寇)。ただし、この外征には当時実権を握っていた太宗の意向が反映している。世宗在位中には1428年1439年1443年通信使が派遣されており、室町幕府との修好・倭寇禁圧要請とともに日本の国情視察を行っている。使節に同行した申叔舟による日本社会の観察は、のちに『海東諸国紀』に記されている。1438年永享10年)ころには文引制を採用し、1443年嘉吉3年)には嘉吉条約を結んだ。
北方では建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江方面を朝鮮の領地に加えた。これらの地域には支配機構として六鎮が置かれた。また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行った。

文化と技術 [編集]

仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18か寺を除いてすべて破却するなどした。高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった(韓国の仏教参照)。世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある。
また、次のような実学や技術が発展したとされている。
  • 1432年に王立天文台である簡儀台を設置し、渾天儀など多くの天体観測器を製作させた。また、時間を測定する日時計仰釜日晷など)と自動水時計(世界初のからくり時計である自撃漏など)も製作させた。
  • 1441年に元官奴で正四品になった蒋英実(チャン・ヨンシル)が発明した「測雨器」は世界最初の雨量計であるといわれ、農業気象学に資した。また、農業技術の改良と勧奨のために『本国経験方』『農事直説』などの農書を編纂させた。
  • 世宗代には活字・印刷技術も発展を遂げた。1403年に発明された青銅活字「癸未字」の欠点を補完するため、新しい青銅活字である「庚子字」(1420年)、「甲寅字」(1434年)を開発させた。
  • 1444年に設置された「火砲鋳造所」ではチェ・へサンにより火薬火器の製造・開発がおこなわれ、火砲の鋳造法と火薬使用法、規格を図示した『銃筒謄録』が刊行された。
  • 世宗は朴堧に楽器の製作、郷楽の創作、井間譜の創案などを命じた。これにより朝鮮の雅楽の復興期が到来したといわれる。
このほか、世宗代に編纂された書籍として、医学書『医方類聚』などがある。

その死と陵墓 [編集]

晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で崩御。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である献陵(現在のソウル特別市瑞草区)に合葬された。1469年、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(通称・世宗大王陵)に移葬されている。