2011年5月29日日曜日

幼児語の共通性


長氏の「普段着の朝鮮語」を読むと、日韓では幼児語に共通性があることがわかる。チチはおっぱい、ウンはうんちプープは車、日韓の子供は通訳が要らないかもしれない。

2011年5月12日木曜日

ハングルをなぜ作ったか


 新しく言葉を作るのにはどのくらいかかるのだろうか、そもそも新しい言葉を作って一般の人たちが使ってくれるのか。

 そんな根本的な疑問を持つけれど、ハングルはそんな大きな障害を乗り越えて現在まできている。

 ハングルの世界という本によれば、ハングルは1443年に始まり、三年後に終わったことになっている。こんなに簡単に新しい言葉ができるのか、筆者も信じていなようだ。

 元々世宗という王は、庶民が自分の意見を自由にいえず、無罪の罪を着せられているというところから始まったようだ。

 これについては、前回も書いたように、学識者から強い反対があった。

 さらに役所も抵抗し使おうとしなかったという。

 反対論者の先鋒は崔万理という人だった。

 彼の主張をようやくすると、勝手に文字を作ると中国との関係が悪くなる。学問が遅れる。言葉ができないからといって無実の罪になるというのは解せない。あまりことを急いではいけない。

 ということだった。

 それでも世宗は押し切った。

ハングル反対論

世宗とハングル
めになると考えていた.それで鄭鱗趾は『訓民正音解例本』序文で,レヽング
ルが作られる前には,漢文書籍を習う人達が,その意昧がわからなくて苦しんだが,ハングルが作られた後には漢文の本を読んでもその意昧がわかるよ
うになった]と説明しているのである.これに対して,崔万理等は次のよう
に反駁した.
① ハングルを使用するようになれば,官吏達がハングルだけ習い,学問に関心を特たないようになるであろう.
② ハングルだけで官吏になることが出来るとすれば,後輩達がこれを見て[二十七字諺文](本文のまま)だけで出世が出来ると考えるだろうから, 何のために苦しみながら「性理之学」を研究するだろうか.
③ このようになったら,数十年後には漢宇を知る人が必ず減ってきて, 「聖賢之文字」を知らない人は事理をわきまえることも出来ないし,我国が築き上げた文化もきれいに亡くなってしまうであろう.このように言ってから,また,
今此諺文 不過新奇一芸耳 於学有損 於治無益 反覆筈之 未見其可 也(今のこの諺文は新奇な一つの芸能であるのみである.それで学問には 害になり政治にも益するところがないから,いくら繰り返して考えてみてもその正しさを知ることが出来ない)として,学問がすたれることを心配している.4)対中国外交と訳学
朝鮮朝は建国初期から,近隣の諸国家と円満な外交関係を維持するのが,重要な国家施策の一つであった.当時の記録者達はこれを「事大交隣」と表現した.しかし,このような外交政策を効果的に展開する為には,これを担当し遂行する人達が,近隣諸国の言語に良く通じている必要があった.
高麗時代にはこのような必要から通文館を設置して漢語(中国語)を教育した.朝鮮朝では1393年(太祖2)9月に司訳院を設置して,外国語の教育に力を注いだ.

世宗 ウィキペディア


世宗(セジョン、せいそう、洪武30年4月10日1397年5月7日) - 景泰元年4月8日1450年5月18日))は、李氏朝鮮の第4代国王世宗大王세종대왕、セジョンデワン)とも言われる。姓は、名は示へんに陶の右)。即位前は忠寧君(チュンニョングン)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン)と呼ばれた。
ハングル訓民正音)の制定を行ったことで知られ、李氏朝鮮の歴代君主中もっとも優れた君主とされる。儒教の理想とする王道政治を展開したとされ、後年「海東の」と称された。しかし一方で女真族への侵略戦争や強制同化策をとり、仏教を弾圧するなど、強硬策も行った。

目次

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生涯 [編集]

即位 [編集]

1397年、第3代国王太宗の第3王子として生まれる。母は元敬王后・閔氏。1406年に成人すると忠寧大君(大君は王の嫡出子に与えられる職官)に封じられ、沈(シム)氏(後の正妃・昭憲王后)と結婚した。
健康問題を抱えた父・太宗には何度か譲位を行う意向があったが、外戚との確執や長男の譲寧大君(ヤンニョンデグン)の奔放な性格が問題となり、なかなか行われなかった。1418年、太宗は譲寧大君から世子(セジャ、王太子)の資格を剥奪し、三男の世宗に譲位した。
世宗即位当初の4年間は、上王となった太宗が軍事権をはじめ政治の実権を握っていた。1422年に太宗が亡くなると、世宗の親政が始まることになる。

内政 [編集]

世宗は宮中に学問研究所として集賢殿(チッピョンジョン)を設置し、ここに若く有望な儒学者や官奴、外国人らを採用してさまざまな特権を与えた。集賢殿は王の政策諮問機関として機能し、李朝の文化と文治主義を発展させる原動力になった。世宗は集賢殿の学士とともに広い分野に及ぶ編纂事業を主導し、儒学やさまざまな文化・技術を振興した(後述)。とくに、集賢殿の鄭麟趾(チョン・インジ)らに命じて創製したハングル(訓民正音)が知られている。
1425年には朝鮮通宝を鋳造し、貨幣経済の浸透を試みた。また、高麗以来の税法である踏験損実法を廃止し、1436年に貢法詳定所を設置して李朝の田税制度を定めた。
1437年になると世宗自体の健康問題もあり、六曹直啓制(省庁を王が直接統括する制度)を議政府署事制(領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式)に変更し、王の国事の負担を軽くし、権力を分散させた。

対外関係 [編集]

日本との関係に関しては、朝鮮の海岸を荒らしていた倭寇の取り締まり問題に関する対立が引き金となり、即位翌年の1419年に対馬への攻撃が行われている(応永の外寇)。ただし、この外征には当時実権を握っていた太宗の意向が反映している。世宗在位中には1428年1439年1443年通信使が派遣されており、室町幕府との修好・倭寇禁圧要請とともに日本の国情視察を行っている。使節に同行した申叔舟による日本社会の観察は、のちに『海東諸国紀』に記されている。1438年永享10年)ころには文引制を採用し、1443年嘉吉3年)には嘉吉条約を結んだ。
北方では建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江方面を朝鮮の領地に加えた。これらの地域には支配機構として六鎮が置かれた。また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行った。

文化と技術 [編集]

仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18か寺を除いてすべて破却するなどした。高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった(韓国の仏教参照)。世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある。
また、次のような実学や技術が発展したとされている。
  • 1432年に王立天文台である簡儀台を設置し、渾天儀など多くの天体観測器を製作させた。また、時間を測定する日時計仰釜日晷など)と自動水時計(世界初のからくり時計である自撃漏など)も製作させた。
  • 1441年に元官奴で正四品になった蒋英実(チャン・ヨンシル)が発明した「測雨器」は世界最初の雨量計であるといわれ、農業気象学に資した。また、農業技術の改良と勧奨のために『本国経験方』『農事直説』などの農書を編纂させた。
  • 世宗代には活字・印刷技術も発展を遂げた。1403年に発明された青銅活字「癸未字」の欠点を補完するため、新しい青銅活字である「庚子字」(1420年)、「甲寅字」(1434年)を開発させた。
  • 1444年に設置された「火砲鋳造所」ではチェ・へサンにより火薬火器の製造・開発がおこなわれ、火砲の鋳造法と火薬使用法、規格を図示した『銃筒謄録』が刊行された。
  • 世宗は朴堧に楽器の製作、郷楽の創作、井間譜の創案などを命じた。これにより朝鮮の雅楽の復興期が到来したといわれる。
このほか、世宗代に編纂された書籍として、医学書『医方類聚』などがある。

その死と陵墓 [編集]

晩年は病気がちとなり、それまで抑圧していた仏教にすがるようになった。1450年、53歳で崩御。先に没していた昭憲王后とともに、太宗の陵墓である献陵(現在のソウル特別市瑞草区)に合葬された。1469年、昭憲王后とともに京畿道驪州郡の英陵(通称・世宗大王陵)に移葬されている。

ハングルの意義

今まで考察してきた世宗とハングル創成,また,これに関する色々な問題を要約すれば,次のようである.
朝鮮朝は,崇儒抑仏を国是として建国したから,建国初期より儒教の精神をもとにして,色々な分野に亘って理想的な政治を施行しようとした.

特に世宗の時には,このような目標を達成するために,多くの分野においてあらゆる政策が力強く椎し進められた時代であった.この結果,内治・外交・文化等の分野で,輝かしい成果を収めた時代でもあった.

世宗時代にハングルが作られ,これに関連する多くの事業が展開されたのも,上で説明したような努力の一一環として成されたものであり,また,当時
犬いに高まっていた「自我の物」に対する自覚が結集された結果であった. その上,世宗とその袖弼者達は,次のような言語観を基本にしていたから,

数多くの語文政策を遂行することが可能であった.

まず何よりも,三国時代から漢字と漢文を借用し,実際に使用している音声言語生活と合わない二重表現生活を営んできたことが,大きな無理であることを自覚していた.また,窮余の策として使用してきた漢字音訓借表記法では,満足すべき言語生活が不可能であることも知っていた.そして,儒教をもとにした礼と楽を治国安民の要訣であると考えていたし,これと密接な関係がある声音が純正でなければならないと考えていた.

それで,治国の要諦として楽と声音を考えていた為政者達は,『洪武正韻』の序文等に表明されているように,標準音としての正音と正声を設定せねばならないと思っていた.これに加えて,宋儒達と同じように聖人の道を正しく理解するためには,あらゆる学問の基礎である声韻学と文字学に関する理論的な研究から,必ず始めなければならないと認識していた.


この他にも,朝鮮朝の建国初期から,近隣諸国と円滑な外交関係を維持するために司訳院を設置し,訳学政策を椎進する間に,外国の語音を正確に理解するため,これを正しく表記出来る表音文字の必要も強く感じていた.

このようにして,中国声韻学と文字学理論を土台にし,諸国の文字を参考にして,あらゆる必要性を満足させてくれる表音文字(ハングル)を作り,新しい文字の解説書である『訓民正音』を編纂した.これは,かつて他の民族の語文政策では見られない例であった.

固有文字である表音文宇の創成によって,韓民族は初めて自由自在に表記生活なするようになり,韓国語によるすぐれた文章語も育成し得る道が開かれた.実際に,ハングルが作られた後,色々な難しい漢文書籍をやさしく翻訳することが出来るようになり,訓民・教化事業も順調に椎進されるようになった.特に,ハングル創制の直後に作られたr龍飛御天歌』と『月印千江之曲
朝鮮朝500年の間,対外関係に必要な訳学書(対訳書又は対訳辞典)が絶えまなく発行されるようになった。

ハングルの成立と歴史 67p

2011年5月11日水曜日

日本は韓国語を奪ったのか

先日金大中の自伝2を読んでいたら、日本の植民地時代、日本は韓国語、朝鮮語を奪ったと書いてあった。これについて論議するつもりはない。
結果的に奪ったのかもしれない。それは否定できない。常に加害者の立場を忘れてはいけないだろう。

しかし、朝鮮総督府は朝鮮語辞典というものを発行していた。

復刻もされている。
朝鮮語辞典  
朝鮮総督府
国書刊行会
[書籍]   \15750(税込)  


以下の記事を見ると、ハングルは死滅したのではなかったようだ。



2008/8/24 朝鮮日報

ハングル学会が100周年

国失ってもハングル失わず
1926年「ハングルの日」制定、33年にはハングル正書法の統一案
創立100周年に合わせ展示会・追慕展・国際学術大会も

 1908年(隆煕2年)8月31日、ソウル西大門付近の奉元寺に青年らが集まった。普段から「言葉と文字を失ったら民族も滅亡する」と教えていた国語学者の白泉・周時経(1876‐1914)が運営していた夏季国語講習所の卒業生と、国語の研究に関心を持つ人々だった。この夏期講習所(1907‐17)は、崔鉉培(チェ・ヒョンベ)、李秉岐(イ・ビョンギ)、玄相允(ヒョン・サンユン)、キム・ドゥボンら数多くの人材を輩出した。この日奉元寺に集まった人々は、金廷鎮(キム・ジョンジン)を会長とする「国語研究学会」を創立した。これが以後100年続くことになるハングル学会の母体となった。

 国語研究学会は1911年9月3日に「倍達ことばの芽」、13年3月23日に「ハングルの苗」と改称、さらに21年12月3月には「朝鮮語研究会」、31年1月10日には「朝鮮語学会」となり、そして49年9月25日に「ハングル学会」へと変わった。

 ハングル学会は、日帝統治下の厳しい状況にあっても韓国の言葉と文字を守り、「言葉と文字を失わない限り民族は滅亡しない」ということを示してくれた歴史の象徴でもある。彼らは26年に「ハングルの日」を制定し、翌27年には学術誌『ハングル』を創刊、33年には現在でもハングル表記の基準となっている「ハングル正書法統一案」を作り出した。42年には、崔鉉培、李熙昇(イ・ヒスン)、李克魯(イ・グクロ)、李允宰(イ・ユンジェ)ら33人が日帝により検挙される「朝鮮語学会事件」が起こり、極めて大きな苦難に直面した。

 この事件により、29年に始まった『朝鮮語大辞典』の編纂事業が一時中断したが、光復(日本の植民地支配からの解放)直後、ソウル駅の倉庫から日帝に奪われた辞典の原稿が劇的に発見された。発見された原稿は、原稿用紙2万6500枚分にもなった。そうして57年、ついに全6巻の『大辞典』が刊行された。その後もハングル学会は『韓国地名大辞典』(91年)、『韓国語辞典』(2005年)を編纂するとともに、機関誌『ハングル』(季刊)を発行し教育事業を展開するなど、活発に活動している。

 ハングル学会(金昇坤〈キム・スンゴン〉会長)は、「創立100周年」に合わせ多彩な記念行事を用意している。今月25日から10月5日まで、ソウル市東大門区淸凉里洞の世宗大王記念館で開かれる「100周年記念展示会」では、学会の歴史を一目で見ることができる文献や図書、書道の作品が展示される。22日午後5時には、ソウル市鍾路区新門路1街のハングル会館で「ハングル学会を導いた師の追慕展」が始まる。

 また、29日と30日の二日間にわたり建国大(ソウル広津区)の新千年館で国際学術大会が開催され、イギリス・ロンドン大のステファン・クノップ、高麗大のホン・ジョンソン、春川教育大の李義道(リ・イド)といった学者が発表者として登場する。30日午後5時には、同じく建国大新千年館で100周年記念式が開かれ、31日午後2時には奉元寺で石碑の除幕式が行われる。29日には郵政事業本部が記念切手を発行する予定だ。

2011年5月10日火曜日

韓国は世界最高水準の文解率を誇る。

2008/12/24(水) 21:33:14 ID:c99V0YMQ
ハングルをまったく読めなかったり、ハングルの文章読解力がほとんどない韓国人が
260万人に達することがわかった。国立国語院が全国の成人(19~79歳)
1万2137人を対象に9月から11月にかけて実施した基礎文解力調査の結果から
わかった。
国立国語院が23日に明らかにしたところによると、非文解率(=非識字率)は成人
人口の1.7%(約62万人)と集計された。これは1966年の8.9%、70年の
7%に比べ大きく減っており、国連開発計画(UNDP)が95~2000年に調査した
先進国の平均値1.4%に近づいている。
この調査で、半文解者の割合は5.3%(約198万人)となった。ハングルは読めるが、
文章を理解する能力がほとんどない人たちだ。国立国語院は、「銀行や官公庁で書類を
作成するなど日常生活に必要なことを他人の助けなしで処理するのが難しい人たち」と説明した。
非文解者と半文解者を合わせた260万人余りが、ハングルを活用した日常生活に
困難があるということにはる。今回の成人文解力調査で比較対象とした全国の
中学3年生332人のうち、非文解者は0人(0%)、半文解者は2人(0.6%)にとどまった。
イ・サンギュ院長は、「韓国は世界最高水準の文解率を誇る。しかし外来語や
専門用語の使用が増えており、思っていたよりも多くの国民が文字生活に不便を感じている
ことがわかった」と述べた。国立国語院はこうした調査を基に、来年に国語文化学校など
文字生活教育を強化する方針だ。
今回の調査は70年に統計庁が人口総調査を実施しながら非識字率を調査して以来
38年ぶりに実施された公式調査。

ハングルの歴史

ハングルは日本語でいえば、「ひらがな・カタカナ」にあたる。「偉大なる(=ハン)文字(=グル)」の意味を持つ。ハングルの創始者は朝鮮王朝第4代王、世宗(セジョン)大王だ。この世宗大王は、ハングルだけでなく、日時計や水時計、星を観測する機械、雨の量を計る装置など、民衆のために便利なものを学者達に工夫させ作り上げた人物としても知られている。

 ハングルができる前、当時の韓国では、韓国語と言語体型が異なる中国の漢字が使われていた。しかし漢字を理解できるのは高級官吏など、一部の支配層に限定されており、一般庶民は書くことはおろか読むこともままならなかった。

 このため世宗大王は、一般民衆にも分かりやすい独自の文字を作るため、当時の有名な学者たちを集めハングルを作り上げました。そして1446年10月9日に大々的に公布され、それまでの漢字語ではない、朝鮮語の正確な表記ができるようになったのです。当時はまだハングルという呼称はなく、「訓民正音(フンミンチョンウン)」と呼ばれていましたが当時の知識人たちはこれを「諺文(おんもん)」といって蔑んでいた。

 ハングルという呼称を初めて使ったのは、開化期の国語学者、周時経(チュ・シギョン)。周時経は39歳という若さで亡くなる。多くのハングル学者は彼の弟子から出るようになった。
1970年には大統領令により「訓民正音」が公布された10月9日を「ハングルの日」に制定。世宗大王の功績を称えるとともに、ハングルの普及・研究を奨励する日として、作文コンクールなどが行われている。

2011年5月7日土曜日

訓民正音

訓民正音とは民衆に教える正しい音という意味であり、朝鮮王朝第4代の王である世宗が当時使用されていた漢字が韓国語と構造が異なる中国語表記による文字体系であったため、多くの民衆たちが学んだり使ったりできない事実を残念に思い、世宗25年(西暦1443年)に韓国語の表記に適合した文字体系を完成させて『訓民正音』と命名しました。当時は自国のものを使うという考え方も広まっていた。

訓民正音、すなわちハングルは28字からなる文字で、現在では4字が使用されず、24字だけ使われていますが、すべての音を完璧に表記できるだけでなく習いやすくまた使いやすい文字体系です。文字体系自体も独創的かつ科学的だと認められており、その意義が大きいと言えます。

この本は鄭麟趾、申叔舟、成三問、朴彭年、姜希顔など集賢殿の8人の学者が執筆したもので内容をよく見ると2つの部分からなっており、第1部は世宗が著わしたもので本の本文に該当します。本文の内容は新しい文字を創製した目的を明言した訓民正音序文と新しい文字28字を初声11字に分け、順に例示して説明した後、これらを結合して韓国語を表記する方法で示した例句からなっています。第2部は世宗の命令にしたがって若い学者たちが著わした本文に関する注釈です。それは新しい文字の制作原理を説明した制字解、音節の初音を表記する子音17字を説明した初声解、母音11字を説明した終声解、初声・中声・終声が結合して音節を表記する方法を説明した合字解、新しい文字として単語を表記した例を示した用字例の6章に分けられます。最後には鄭麟趾の訓民正音解例本序文がついています。
ハングルのように一定の時期に特定の人がすでに存在している文字から直接に影響を受けないで独創的に新しい文字を作って一国家の公用文字として使用するようにしたのは世界的に類例がないことです。さらに新しい文字に関する解説を本にして出版したことは類例のない歴史的なことでした。
特にこの本で文字を作った原理と文字使用に対する説明に示される理論の整然さと厳正さについては世界の言語学者たちも非常に高く評価しています。 訓民正音は国宝第70号に指定されており、1997年10月にユネスコ世界記録遺産に登録されました。

(Korean Cultural Insights)

2011年5月6日金曜日

長璋吉の単語カード

ハングルを学ぶものにとって、長璋吉氏の名前はよく知られている。イデオロギーではなく、言葉の美しさに目覚め、それを日本に伝えてくれた人だからだ。

彼にはエッセーが二つあり、そのどれも、誠実な姿勢でハングルを見つめている。

彼には朝鮮語の慣用句をまとめたカードがあり、それが今の小学館朝鮮語辞書の原点になったとされる。

うーんおもしろそうだ。東京外大にあるそうな。

http://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/e0eb2d327e740b25d9eecf241f2d482f