.倭とは何か
倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。5世紀末までは南韓の中にいた倭を指す。
倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。
..「やまと」の語源
山のふもと
山に囲まれた地域であるからと言う説
この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説[1]
..ヤマトの範囲
元々は大和王朝(ヤマト王権)の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、大和王朝が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。さらに支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。
.任那日本府
現在、記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたと考えられている[7]。
1960年代頃から朝鮮半島では民族主義が広がり、既存説への反動から、記紀に記されているヤマト王権の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた[8]。この説に対しては、『日本書紀』を否定しておきながら、出雲神話、天孫降臨神話、神武天皇東征伝承などを歴史的事実と認め、そこから日本本土内の「分国」存在の結論を導き出しているのは自己矛盾の何物でもない等の批判がなされ、全く支持されなかったが、1970年代に入り、それに同調する日本の研究者も現れた[9]。
しかしながら、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であると紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次ぎ(その後の調査により、松鶴洞一号墳に関しては、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないことが明らかになったが[10])、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳があることが確認されている[11]。
また朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとする説[5]がある地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている[11]。
そのため、ヤマト王権と深い関連を持つ集団(ヤマト王権から派遣された官吏や軍人、交易商人、ヤマト王権に臣従した在地豪族)が、伽耶地域とその西隣の地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについては、ほぼ確実視されるようになった[12]。
ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉などがある。戦前の日本の考古学者はこれをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後に朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたこともあった。 しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないこと[13]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、日本からの輸出品であることがわかった[14]。
..伽耶
伽耶は古代の朝鮮半島南部に存在した数多くの国家のことである。伽耶諸国と呼称する場合もある。滅亡の時まで一つの国家に統合することなく、百済と新羅によって併呑されたが、存在している間は倭国との関係が深く、倭国にとって伽耶は最も近い外国で、発達した文化を伽耶から学んだ。
伽耶は戦前から1970年代まで、主に「任那」と呼称され、倭国が支配していたとされてきた。日本書紀の記述を根拠としており、書紀の記述以上の想像も付加して、歴史的事実だと考えられていたが、現在は、そのような考えは殆ど否定されている。古代の日本とどのような関係をもった地域であったのか、文献史学、考古学的調査・研究の進歩によって、客観的に、かつ実体的、個別的に考察することが可能となった。
.任那日本府
日本書紀の欽明紀にのみ表れる用語である。
神功皇后による三韓征伐神話などを根拠に、倭国は4世紀後半から万単位の軍勢を朝鮮半島南部の「任那」に送って、これを自国領とし任那日本府はその統治機関とされていた。
しかしながら6世紀以降「任那」は百済、新羅による激しい攻撃に晒され、遂に562年新羅によって完全に飲み込まれてしまう。こうして「任那」と「日本府」は消滅し、新羅は倭国の「敵国」とされる。
簡潔にいうと、4世紀から7世紀にかけて倭国は「任那」という自国の領土の維持、滅亡後はその復興を主眼に置いていたが、それらはすべて失敗に帰したというのが従来の通説であった。
しかしながら1970年代以降、各種史料の研究が進展したことで今日では上記の言説は否定され、倭国が万単位の軍勢を送ったのは白村江の戦いが初めてであり、それ以前は多くても1000人以内であること、倭国が朝鮮半島を支配した事実はないということが判明している(史料用語として「任那」、「任那日本府」という言葉は用いられることもある)。「任那日本府」の実態については研究者によって意見が分かれている。
韓国の韓の意味は?
地名の韓は、古くは中国戦国時代の七雄の一国の名。その後、紀元前後には朝鮮半島南部の三韓。その後1500年の間をおいて、朝鮮半島の地名として「韓」が復活するのは、19世紀末の「大韓帝国」です。
ネットや本から集めてきた基礎的用語集です。