2011年8月16日火曜日

日本人の朝鮮観

 

勉強しはじめたばかりだが、日本人の歴史観には日本書紀が影響していると思う。

 

三韓征伐 
日本書紀に記述。神功皇后が行ったとされる朝鮮半島新羅への出兵をさす。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされる。今から約2000年前、仲哀天皇の即位2年春2月に仲哀天皇、神功皇后が敦賀に御幸され笥飯の行宮(気比神宮)を営み給うた。その後天皇は熊襲征伐のため陸路山陽道を山口県へ向う。神功皇后は2月より6月まで気比神宮の奥宮常宮神社にとどまり、6月中の卯の日に海路日本海を渡り、山口県豊浦の宮にて天皇と再会する。神意に背いて熊襲征伐を行った仲哀天皇は亡くなったが、神功皇后は朝鮮半島の三韓征伐(新羅征伐)を行う。
上記神話は歴史学的な実証性はほとんどなく、神功皇后の実在性も希薄である。しかし、この4世紀から5世紀に渡って倭の国が半島に出兵していることは公開土王碑の検証を巡って歴史的に実証されている。神話はこの事を教示し、敦賀の地と大陸の密接な関係を教える。

このテーマで朝鮮新報が連載している。意外な人の、思いがけない見方が分かる。

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/06/0506r600.htm

日本人の朝鮮観を研究した本には、こういったものもある。

 


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「妄言」の原形―日本人の朝鮮観 高崎 宗司 (単行本 - 2002/4)

2.

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日本人の朝鮮観 琴 秉洞 (単行本 - 2006/9/27)

誰でも知りたい朝鮮人の日本人観 総解説 琴 秉洞、 高柳 俊男 (単行本 - 1986/2)

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オンドルと畳の国―近代日本の“朝鮮観” (仏教大学鷹陵文化叢書) 三谷 憲正 (単行本 - 2003/9)

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韓国のイメージ―戦後日本人の隣国観 (中公新書) 鄭 大均 (新書 - 2010/9)

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差別への凝視―365日が3回 大菅 新 (単行本 - 2006/4)

 

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朝鮮近現代史を歩く―京都からソウルへ (佛教大学鷹陵文化叢書) 太田 修 (単行本 - 2009/4)

「妄言」の原形―日本人の朝鮮観 高崎 宗司 (単行本 - 2002/4)

2011年8月15日月曜日

創氏改名 当時の感覚は?

創氏改名については、いろいろな立場から書かれているが、当時を回想している人の文章はあまりない。

ボクらの京城師範付属第二国民学校という本に、創氏改名の時期における韓国内の雰囲気が描かれている。

クラスのほとんどは入学したとき日本式の名前になっていた。40人中、創氏改名していないのは私を含めて4人だけだった。だから先生に何か言われるということはなかったが、祖父は「役所から期限内に改名するように指示があった」(25p)と書いている。

本人は創氏改名しないことで引け目を感じていたという。子供だからそうかもしれない。

原文 非公開

http://pinoccio.at.webry.info/200603/article_2.html

2011年8月14日日曜日

前方後円墳の謎

日本にしかないと思われた墓、前方後円墳が韓国南部であいつで発見されている。

しかも、かつて日本が出先を持っていた地域ではなく、現在の全羅南道のあたりに集中して出ているという。おもしろい話だ。現地に行ってみたくなった。

今後書き加えて行きます。

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参考サイト

http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2009/06/13-1c9b.html

http://pub.ne.jp/luckfield/?entry_id=3314838

七支刀も興味深い

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80

2011年7月30日土曜日

古代史用語覚え書き

 

.倭とは何か


倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))は、
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。5世紀末までは南韓の中にいた倭を指す。

倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。

..「やまと」の語源


山のふもと
山に囲まれた地域であるからと言う説
この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説[1]

..ヤマトの範囲


元々は大和王朝(ヤマト王権)の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、大和王朝が奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。さらに支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。

.任那日本府


現在、記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたと考えられている[7]。
1960年代頃から朝鮮半島では民族主義が広がり、既存説への反動から、記紀に記されているヤマト王権の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた[8]。この説に対しては、『日本書紀』を否定しておきながら、出雲神話、天孫降臨神話、神武天皇東征伝承などを歴史的事実と認め、そこから日本本土内の「分国」存在の結論を導き出しているのは自己矛盾の何物でもない等の批判がなされ、全く支持されなかったが、1970年代に入り、それに同調する日本の研究者も現れた[9]。
しかしながら、1983年に慶尚南道の松鶴洞一号墳(墳丘長66メートル)が前方後円墳であると紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次ぎ(その後の調査により、松鶴洞一号墳に関しては、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないことが明らかになったが[10])、これまでのところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳があることが確認されている[11]。
また朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、百済が南遷する前は金官伽耶を中心とする政治的領域の最西部であったとする説[5]がある地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている[11]。
そのため、ヤマト王権と深い関連を持つ集団(ヤマト王権から派遣された官吏や軍人、交易商人、ヤマト王権に臣従した在地豪族)が、伽耶地域とその西隣の地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについては、ほぼ確実視されるようになった[12]。
ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉などがある。戦前の日本の考古学者はこれをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後に朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたこともあった。 しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないこと[13]に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、日本からの輸出品であることがわかった[14]。

..伽耶

伽耶は古代の朝鮮半島南部に存在した数多くの国家のことである。伽耶諸国と呼称する場合もある。滅亡の時まで一つの国家に統合することなく、百済と新羅によって併呑されたが、存在している間は倭国との関係が深く、倭国にとって伽耶は最も近い外国で、発達した文化を伽耶から学んだ。

伽耶は戦前から1970年代まで、主に「任那」と呼称され、倭国が支配していたとされてきた。日本書紀の記述を根拠としており、書紀の記述以上の想像も付加して、歴史的事実だと考えられていたが、現在は、そのような考えは殆ど否定されている。古代の日本とどのような関係をもった地域であったのか、文献史学、考古学的調査・研究の進歩によって、客観的に、かつ実体的、個別的に考察することが可能となった。

 

.任那日本府

日本書紀の欽明紀にのみ表れる用語である。
神功皇后による三韓征伐神話などを根拠に、倭国は4世紀後半から万単位の軍勢を朝鮮半島南部の「任那」に送って、これを自国領とし任那日本府はその統治機関とされていた。
しかしながら6世紀以降「任那」は百済、新羅による激しい攻撃に晒され、遂に562年新羅によって完全に飲み込まれてしまう。こうして「任那」と「日本府」は消滅し、新羅は倭国の「敵国」とされる。

簡潔にいうと、4世紀から7世紀にかけて倭国は「任那」という自国の領土の維持、滅亡後はその復興を主眼に置いていたが、それらはすべて失敗に帰したというのが従来の通説であった。

しかしながら1970年代以降、各種史料の研究が進展したことで今日では上記の言説は否定され、倭国が万単位の軍勢を送ったのは白村江の戦いが初めてであり、それ以前は多くても1000人以内であること、倭国が朝鮮半島を支配した事実はないということが判明している(史料用語として「任那」、「任那日本府」という言葉は用いられることもある)。「任那日本府」の実態については研究者によって意見が分かれている。

韓国の韓の意味は?

地名の韓は、古くは中国戦国時代の七雄の一国の名。その後、紀元前後には朝鮮半島南部の三韓。その後1500年の間をおいて、朝鮮半島の地名として「韓」が復活するのは、19世紀末の「大韓帝国」です。

ネットや本から集めてきた基礎的用語集です。

2011年7月12日火曜日

唐人踊りはどこにあるか

朝鮮通信使が刺激になって各地に残っている唐人踊り。

絵で残っているのは岡山県牛窓の金剛頂寺、東照宮縁起絵巻、朝鮮酷使歓待之図、羽川珍重作(神戸市立博物館蔵)が有名だ。

 

本物の踊りで代表的なのは鈴鹿。牛窓、鈴鹿の3カ所。

共通する特色は、足を大きく開いて、ラッパを吹く。激しい上半身の動きである。

 

 

 鈴鹿市の唐人踊り、国道23号線ぞいにある東玉垣町で、4月に牛頭(ごず)天王社の祭礼と して行われる。仮面をつけた地元の若者が、太鼓や鉦などにはやされて活発に踊る。 唐人役を務める男性は、女性をからかい、町内をまわる。 

ホームページ 牛頭天王社春祭り(H15.4.6)

鈴鹿市の唐人踊り

起源についての確かな裏付けはなく、『新編 鈴鹿市の歴史』のなかでは、唐人踊りの楽曲を中国式の音楽として、 「この踊りは江戸時代中期はじめに長崎に行われ、その後江戸、浪速の地で盛行していたものを、祭りの行事として 輸入したものではなかろうか」と推理して、「その源流を韓国か中国にみつけねばならない」と記している。


  それに対して、朝鮮通信使については、ラッパなどの楽器、衣装や帽子の形が津市の唐人踊りと似ている。 メロディーについて民族音楽学者の草野妙子武蔵野音楽大学教授と京都大学の上田正昭教授は、音階的に朝鮮音楽の影響が見られ、朝鮮中期の田植え歌と推測。平成9年には、三重県無形民俗文化財に指定された。

 岡山県牛窓町の唐子踊りは、朝鮮通信使が立ち寄った港の中で、唯一、名残を残しているものとして有名。 小学校の教科書でも写真つきで紹介されています。戦前は、津市の唐人踊りが「豊臣秀吉の朝鮮出兵に由来する」と 説明していたように、「神功皇后の朝鮮出兵に由来する」と起源を解説していたが、今では、 朝鮮通信使ゆかりの民俗芸能として保存している。

写真ページ 牛窓秋祭り(H15.10.26)

岡山県の唐子踊り

 鮮やかな色彩の衣装を着た二人の男児が、肩車に乗って地区の神社に参詣し、小太鼓や横笛と意味不明の歌に合わせ て踊る。10月の祭礼で披露される唐子踊りは、朝鮮通信使一行の 童子対舞がもとであるとの説が有力になっています。そして、牛窓町では、「海遊館」という名前で朝鮮通信使と地元のだんじり祭りを 紹介する資料館を常設しており、いつでも見学できる。
 

江戸、金沢、名古屋、川越、土浦、和歌山、鳥取、二宮など で唐人踊という名称の芸能があったということが分かってきている。

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津市分部町の唐人踊りは行列の正使である大将がいて、「清道」などの旗をかかげ、大勢で練り歩くというスタイルは、唐人踊りだけのもので、 朝鮮通信使の絵図と比べてよく似ている。

最近、毎年11月には朝鮮通信使ゆかりの自治体などで集まる「朝鮮通信使縁地連絡協議会」 では、いつも当時の行列を再現するように要請を受けている。
 

朝鮮通信使が通過さえもしていないのに、なぜ津で このような形で残っているのかは、よく分かっていない。

net上のドキュメント保存室に関連あり


2011年7月10日日曜日

東学党の乱を考える

この乱は農民一揆のように考えられているが、実は韓国の民衆史の中で初めて本格的な民衆蜂起だった。

甲午農民戦争ともよばれ朝鮮近代史の大きな転換点であった。一九八〇年代、韓国の民主化運動が進展するなか、甲午農民戦争を近代民衆運動の出発点としてとらえる評価は、すっかり定着した感がある。私たちはやはり、偉大な緑豆将軍をしのんで今も歌いつがれている。

  鳥よ 鳥よ 青鳥よ

  緑豆の畠に下り立つな

  緑豆の花がホロホロ散れば

  青餔売り婆さん泣いて行く

    (日本語訳は、金素雲訳編『朝鮮童謡選』岩波文庫、による)

首謀者の

全●準ぜん ほうじゅん、1854年 - 1895年)は、朝鮮国(李朝)後期の人物。東学の主要人物で、甲午農民戦争の契機をつくった。
生涯

1854年、全羅北道の泰仁で生まれた。東学の地方幹部であった彼は、暴政を行う役人に対する憤りから、1894年に農民を統率して郡庁を襲撃した。これを契機として甲午農民戦争が勃発した。その後まもなく日本と清朝がともに出兵したこともあり、一旦は全州和約を結んで政府と和した(但し和約を結んだとする一次資料は発見されていない)。しかし、親日的な開化派政権が成立すると、再び蜂起して抵抗を続けた。最終的には逮捕され、漢城(ソウル)で1895年に処刑された。

東学が一般大衆に広がった理由のひとつは、その教理の単純なことによる。即ち、儒学の修得が長い年月と相当の財力を必要とするのに比べて、東学において、その真理に達するための修養方法は、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった。東学教徒たちは天主(ハヌニム、「天の神」、朝鮮における古代からのシャーマニズムに由来する概念)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた。

また山中に祭壇を設けて天(ハヌル)を祭り、戦いに備えるため木剣を持って剣舞をならった。しかし、東学の教理は、革命ではなく、教化であり、東学党の上層部は常に農民(賤民層)の暴力的闘争を拒否した。

以下は、日本の或る陸軍将校が記録した全?準の言葉である。

我々は閔(みん)氏一族が民を思わず恣(ほしいまま)に私腹(しふく)を肥(こ)やしているのを見て憤慨(ふんがい)している。この閔氏一族を斥(しりぞ)けるようしばしば政府に直訴(じきそ)したが、無視され続けた。これは、宮廷にいる閔氏一族が邪魔をして我々の訴えを国王に伝えないからであろうと思った。それで君側の奸(くんそくのかん=国王のそばにいて政治を私物化している人物)を除(のぞ)くために挙兵(きよへい)したのである。
しかし、我らの挙兵は、思いがけず日本と清の軍隊を国内に呼び込む結果となった。こういう結果を招いたのは、たいへん残念なことである。
 http://www.jiyuushikan.org/jugyo/jugyo80.html

日本人では内田良平が参加している。

2011年6月13日月曜日

白村江の戦いに見る日本人気質

韓国の歴史の本、たまたま白村江の戦いについて読んだら、思いがけないことが書いてあった。複数の本に同じ記述があるので本当だろう。

この海戦は663年に起きるが、準備万端の唐軍に対して日本側は「 我先をあそわば、彼自ら引退くべし」と気象を無視して突撃し、数万の日本軍は、数千の唐軍に惨敗する。日本は突撃精神が重視されるが、このころから変わっていなかったのかも。

「白村江」以後 森公章