2011年6月13日月曜日

白村江の戦いに見る日本人気質

韓国の歴史の本、たまたま白村江の戦いについて読んだら、思いがけないことが書いてあった。複数の本に同じ記述があるので本当だろう。

この海戦は663年に起きるが、準備万端の唐軍に対して日本側は「 我先をあそわば、彼自ら引退くべし」と気象を無視して突撃し、数万の日本軍は、数千の唐軍に惨敗する。日本は突撃精神が重視されるが、このころから変わっていなかったのかも。

「白村江」以後 森公章

2011年6月7日火曜日

朝鮮時代 王は庶民の近くにいた

「直訴と王権」(原武史)を読む。この本は朝鮮王朝時代に、王が民からの直訴を丁寧に受けていたことを書いている。新鮮な視点だった。

日本でも江戸時代直訴はあった。しかし、直訴したものは死刑になった。

朝鮮王朝では、名君とうたわれ、ハングルの創設にも尽力した世宗が「御使」と称して、地方の実情を調べる使節を派遣したのを始め、後生の王も民の意見収集に努力していた。それを儒教の教えと考えていたという。(前書き)

すると金正日総書記が熱心に行っている現地指導も、こういう朝鮮王朝の伝統を受け継いだものといえるのかもしれない。

2011年6月2日木曜日

金大中


韓国の政治家金大中の人生のハイライトは、実は刑務所にいたときではないかと思う。対立する政治家を心の中で許しながら、平穏を得て、読書に邁進する。彼が政治家としての深みを得たのは、あの時代立ったのだと思う。そのことは最新の自伝の346pから記述されている。

2年間に1日10時間、600冊読んだという。

2011年6月1日水曜日

朱子学と朝鮮半島

宋学を大成したのが朱熹(しゅき)で、後に朱子とも言われた(1130~1200)。
日本では平安末期から鎌倉初期のころの人だ。


わずか19歳で科挙に合格した朱熹は泉州同安県の主簿となったあと4年で退官し。李延平に師事し儒学を学び、46歳のとき呂祖謙と共に近思録を著した。

朱熹の理論では宇宙は原理と運動の二つから成り、原理のことを「理」、運動のことを「気」と言います。ここからこの理論を理気二元論とも言う。

朱子は、総合的に論ずれば万物を統括する実態は一つの太極(すべての根源)である。太極とは理であり、その動静は気である。理は根本であり、その後に気が生ずるのだ と言う。

儒教はすなわち、孔子などの言葉を学ぶことだった。朱子学、それまでの儒学とは全く違って、人間とは何かという普遍的なものを探求した。イデオロギー色が強い。根本には「尊王賤覇」がある。「王」即ち皇帝を尊び、覇者を蔑むということだ。


ここまでは一般論。抽象的な論理構成です。韓国はそれまで儒教をさらに道徳的に高め、社会の朱子学化を進めた。改革思考だった。だから「司馬遼太郎のように朝鮮王朝は停滞の500年だったというのは間違い」(大倉紀蔵)という人もいる。